「海外旅行華中編1(2003年)」
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作成日時 : 2005/08/24 08:02
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写真は寒山寺の五重の塔
蘇州の記事です。
ぶらり海外旅行アラカルト(中国華中編1)
ノンビザになった中国
「 2003年9月1日より、普通パスポートを持つ商用、観光、親族訪問、トランジットの目的で入境する日本籍の者は、入境日から15日以内の場合ノービザとなりました。」という通知が中国大使館の領事部からあり、中国旅行は便利になった。しかし、今回の私の旅行は蘇州号という船に乗って11月16日上海着、足かけ17日間在中し12月2日上海から同じ蘇州号に乗って帰るので、従来は船内で取れた入国ビザを日本で取らなくてはならず、かえって不便になってしまった。
蘇州号の乗船券は新宿駅西口のJTBで購入したが、なぜか外国と連絡する長距離フェリーは国内旅行扱いで、ビザの取得だけが外国旅行扱いだった。そして、東京以外の在日中国領事館では個人申請のビザ取得も受け付けると言うが、東京だけは旅行代理店を経由しなければ受け付けてくれなかった。
11月13日の夜、新宿西口のヨドバシカメラの前にあるバスターミナルから夜行バスに乗り込んだ。大阪行きの夜行バスは近鉄バスと京王系の多摩バスが共同運行しており、料金が4800円のものと、その約倍近い8610円のものとがあり、安い方は普通の座席だが私の乗ったのは3列のリクライニング式で、ウイスキーをちびりちびりとやっているとすぐ眠くなり、目が覚めればもう大阪梅田だった。
次の難波でバスを降りたが朝6時とまだ暗かった。乗船は出航時間の1時間前の11時までだったので、時間がたっぷりあり、このバスターミなるでしばらく休んでいくことにした。
9時頃になってターミナルをでたが、難波とその周辺は区画整理をされてすっかり変わっていて、JRや地下鉄の駅は高層ビルに入っていた。
しかし、大通りの向こう側は昔からの難波の街並みで、一膳飯屋を見つけて朝御飯を食べてから地下鉄でコスモ・スクエア駅まで行き、そこからタクシーで大阪国際フェリーターミナルへ向かった。
蘇州号で大阪から上海へ
蘇州号を運行している上海フェリーは、日中両国政府間協議を経て、日本の代表的な船会社で構成される上海貨客船株式会社と、中国最大の船会社、中国遠洋運輸総公司の出資により設立された日中合弁の船会社である。
蘇州号は総トン数 14,410トン、全長 154.73メートル、全幅22メートル、航海速力21ノット、 旅客定員272名であるが、常に定員一杯と言うことはなく、国際フェリーは貨物輸送の収入が大きな部分を占めているらしい。 出航1時間前に乗船し一等船室に入ると2段ベッドが二つあったが、私一人の借りきりだった。
上海までの航路は、瀬戸内海を関門大橋まで走り壱岐島の南側から五島列島の沖合を走り、南シナ海から揚子江に入って、黄浦江にから上海埠頭というルートである。出航してから次の日の朝までは、ほとんど日本の領海を走るのであった。出航するとすぐ淡路島が見えその後も見慣れた景色が続くので、キャビンで横になって持ってきた本を読みながら時間をつぶし、VIPルームの横にある大風呂で海を眺めながらのんびりとくつろいだ。私が第二の人生で会社に勤めていた時は、出張で苫小牧・仙台間のフェリーによく乗り、その船の大風呂もゆったりしていて快適だったが、蘇州号の船客は日本人が少ないせいか、いつも風呂は相客が居なくてゆっくり入れるのが良かった。大阪・上海間のもう一つのフェリー新鑑真号はシャワーのみというので、風呂付きの蘇州号に決めたという経緯があった。
船内で通用するお金は日本円のみだが、アルコールは免税で食事も日本の飲食店の値段からすれば安い方であるが、中国の物価と比べればかなり高かった。夕食に日本酒のビールとワンカップを2本とり二皿日本のおかずを食べ、それから免税店でシーバスリーガルを買い寝酒にした。
翌日の朝食は船賃に含まれていて、お粥が美味しかった。
旅は人とのふれあいが楽しいのであるが、検査院に入った当時は、九州、四国、北海道への寝台車で出張というと、飲み物や食べ物を買い込んできて小宴会を開き、同じ部屋の乗客とも仲良くなって大いに話が弾んだものである。
ところが新幹線が走るようになってからは、列車の中で他の人と話をするということが無くなってきたし、ヨーロッパやアメリカへ行く長時間の飛行機の中でも、殆ど隣の人との会話が無くなってきている。
ところが長い船旅では、乗客が集まって話をするという事が今でも普通に行われている。
この日は南シナ海の航行で、商社の繊維部門で働いていて、リタイヤー後は中国から日本に輸出する繊維製品の検品の仕事を請け負っている駒井さんという人の、世界中を回った話を一日中聞いて終わった。彼は色々な国の言葉を話すが読めない、書けないという不思議な人であった。しかし彼の話は面白く、いつも彼の周りには何人かの乗客が群がっていた。
16日は上海に到着する日であったが、船内で知り合った、阪本さんと林さんの二人が蘇州に直行するというので、私もタクシーに同乗させてもらって、上海見物は後回しにして、蘇州から旅を始めることにした。
ここで今回旅の途中でお世話になった、阪本さんと林さんのお二人の人柄を紹介しておこう。
阪本さんは日本生まれの韓国人二世で韓国名を鄭さんと言い、日本の永住権を持っている人である。彼は建設会社を経営していたが、今は経営を息子さんに任せ、名前だけの会長職になっている。彼は成人してから韓国語を習い民族意識にも目覚めたと言っているが、在日二世、三世が考え方や生活様式などはほとんど日本人と同じになっている様に、話をしてみると私たち日本人と殆ど変わらない考え方である。そして彼の息子さんは日本に帰化しているという。余暇のある阪本さんは、現在は中国、韓国をしばしば訪問して旅を楽しんでいるという人生である。
その阪本さんが前回の蘇州号で知り合ったという林さん(本当はリンさんと言うのだろうが自分ではハヤシといっていたし、私の知り合いの台湾人も林と書いてハヤシと名乗っていたので、そちらの方が通りがよいのであろうと思った。)は、日本に永住権を持つ日本生まれの中国人で、工科系の技術者であったが、今は神戸と蘇州に家を持ちいくつかの中国と日本の会社の技術コンサルタントをしている人であった。
国際埠頭からすぐにタクシーで蘇州へ
船が揚子江に入ると海の水から川の泥水に変わり、やがて国際埠頭に到着した。入管、税関の検査を終わり外へでてタクシーをつかまえて、蘇州までといい、高速道路を通って約一時間で林さんの自宅に到着した。300元のタクシー代は3人で分担したので一人100元と安かった。
蘇州は中国の江蘇省南東部,上海の西約80キロにあり、長江三角州の中心に位置し人口は約420万という大都会で、戦前李香蘭(山口淑子)が歌った蘇州夜曲で知られている。また、この都市は古い歴史をもち、文化財,景勝の地に富む江南第一の観光都市で、特に滄浪亭,獅子林,拙政園,留園等の園林は著名である。また虎丘,霊巌山,宝帯橋等の名勝,寒山寺,報恩寺,玄妙観等の寺院も重要な観光地である。これらの文化遺跡や優れた工芸品の産出地として,日本においても古くから良く知られている。
林さんの家は蘇州工業パークの中にある5階建てのマンションの5階で、上っていくのが大変だが、林さんはこの階段を上り下りすることが、足を鍛えて健康管理に役立っていると話していた。
蘇州は歴史的地区とそれを挟んで建設された二つの工業団地で形成されているが、ここで中国の改革開放路線と、その結果建設された蘇州の二つの工業団地を紹介しておこう。
1979年に中国で正式採用された大胆な経済改革と対外開放路線は、主に先進国からの資本と技術を移入することを支柱としている、この対外開放の出発点となったのが、80年に設置された広東省の深川(しんせん),珠海,汕頭(スワトウ)と福建省のアモイの四つの経済特区である。ケ小平の「南巡講話」をきっかけに1984年に中国沿海港都市という経済開放区が14か所,1985年には7カ所の重点開放都市が、また、同年長江デルタ、珠江デルタ、中南デルタ地帯が経済開発区となった。さらに1988年に山東半島、遼寧半島,及び海南島が指定地域として外国企業に開放された。1990年に、上海の浦東開発区も設置された。
そして蘇州の二つの工業団地は長江経済開発区の中に位置づけられているが、 蘇州は歴史的にシルクとコメの生産地として有名であり、蘇州工業パークと蘇州新区の2大ハイテクパークの誕生後、蘇州は中国におけるハイテク産業の中心拠点の一つになった。2000年までに、2つのハイテクパークは充実した工業設備、人材資源、優遇された税務貿易政策によって、富士通、フィリップなどの550社の企業の投資を誘致している。そして、投資額は80億ドルを超え、就業者数は8万人に上っている。
ここの主な工業製品は、マウス、液晶ディスプレーなどのパソコン部品で、世界でも高いシェアを占めている。
中国とシンガポールが共同出資した蘇州工業パークの持ち株比率が調整された後、一年間にわたり、中国側は大株主として管理を請負うようになり、中国とシンガポールの協力は絶えず発展している。2001年、パーク内の主要経済指数は上昇し続け、国内総生産(GDP)は180億2千万元(前年比38%増)に達した。財政収入は24億3千万元(同比49%増)で輸出入総額は37億ドルとなり、うち輸出が16億ドルとなった。パークのビジネス誘致と資本導入はさらに進展し、年間外資利用額は契約ベースで44億7千万ドル(同比3.5倍増)に、実績ベースで16億3千万ドル(同比2.8倍)に上った。
投資国の環境に不安定な要素が多くみられた状況を考慮したが、蘇州工業パークでは新たな開発建設が相次いだ。ビジネス招致と資本導入の構造的調整から着手し、台湾、日本向けのIC、TFTの生産に重点を置くことによって著しい成果を上げた。2002年、新規の台湾資本プロジェクトの契約金額は16億8千万ドル、IC、TFTの契約金額は128億ドルに上り、パークのさらなる発展に向け、大きな実績を積み上げた。
この蘇州工業パークの中にはいくつかの住宅団地があり、日本の団地と同じようにスーパーマーケットやレストラン銀行などが整備され、団地内で生活の用が足りるようになっている。
マンションをでて昼食は団地内のレストランの定食で済ませたが、一人18元日本円にすると250円ぐらいと安かった。
蘇州の日本語教育環境
食事後一休みしてから市内にバスで行き、私はシルクの店に連れて行ってもらい、今夜から着る絹の寝間着を買うことにした。
それから林さんが出資をしている中国茶を出す喫茶店に行き、女主人と林さんが経営の相談をしている間お茶をご馳走になった。ここの飲み方はコップに茶葉を入れその上にお湯を注ぎ、茶葉を口に入れないようにお茶をすするという方法だった。日本人がペットボトルを持ち歩くように、一般に中国人はガラス製の容器に茶葉とお湯を入れて蓋をし、それを持ち歩いて頻繁にのどを潤しているのが一般的だと分かった。
二人の話が終わって夕食ということで、魚のしゃぶしゃぶの店に行き、老酒を飲みながら川魚をお酢につけて食べたが、老酒は蘇州産の三年物で、ここのお酢は鎮江のお酢であった。
日本では老酒に氷砂糖を入れて飲む習慣があるが、これは明治年間に中国人の留学生が神保町あたりで中華料理店始めた時、そこでだしていた老酒が良い物では無かったので、氷砂糖を入れて甘くして飲んだのが始まりだと聞いているが、ここの3年物の老酒は生で飲んでも大変美味しかった。
お酢の方は最近テレビのコマーシャルで良くでてくる鎮江産の香酢で、中国ではこのお酢に浸けて色々な物を食べている。中国では匂いが気にならなかったが、日本に持ってかえってきて餃子に浸けて食べると、強い匂いが少し気になるが味はとても良い物である。
食事を終わり喫茶店に帰ると、林さん帰国を知って友人の日本語学校を経営する先生と生徒が訪ねてきていた。
先生の説明では、蘇州大学に日本語科もあるが、工業団地に進出してくる日本企業が日本語の分かる人材を求めていて、需要に供給が追いつかない状態だということであった。
「日本人の留学生では知識と経験が少なくて十分な日本語を教えられない。今ここで必要な教師は定年後の仕事を終わったような日本人やそれに近い年齢の女性である。教師は資格を問わないし、飛行機代までは出せないが食事と宿泊は保証するので、そういう人をよこしてほしい。」と林さんに頼んでいた。
そして林さんも私が連絡役になってこの話はまとめたいと言っていた。
その晩は林さんのマンションで泊めていただいたが、私はいびきがうるさいので、二階の寝室には休まずに、コンピュータルームにベッドを作って休むことにした。
鐘で有名な寒山寺見物
11月16日は朝粥をご馳走になってから、阪本さんと二人で市内見物に行くことにした。
86番のバスで蘇州体育館前まで行き、中国商業銀行で4万円を人民元に替えたが1元が13円強だった。
そこからタクシーに乗りまず向かったのが寒山寺であった。寺内に入る前に外の店で水餃子、炒飯、青梗菜を頼んで軽くビールを飲んでから、鐘突き料を含めて15元を払って入場した。寒山寺は509年から519年の間に建立されたもので、当時の名前は、妙利普明塔院であったが、唐の時代に寒山と拾得がここで修行したことから寒山寺に名を変えた。寒山寺は唐の詩人張継の「楓橋夜泊」で有名であり、詩文は
月落ち烏鳴いて霜天に満つ
江楓漁火愁眠に対す
姑蘇城外の寒山寺
夜半の鐘声客船に到る
である。張継が「楓橋夜泊」を詠って以来、寒山寺は全国的に有名になり、今日、寒山寺は中国だけでなく、日本を含む諸外国でも広く知られるようになった。
大晦日の夜に寒山寺で除夜の鐘を聴きながら新年を迎えるのは、人気の高いイベントになっているが、鐘はいつでも突くことができ、私の行った時も鐘突は行列ができていて、私も一回だけ突いてみることにした。
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