海外旅行スロベニアからアイルランドまで1(1999年)
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作成日時 : 2005/10/31 06:58
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イタリアの国境トリエステからスロベニアの首都リュブリアナまでの旅です。
写真はリュブリアナの街
ぶらり海外旅行アラカルト
(スロベニアからアイルランドまで1)
吉田先輩ご夫妻とヨーロッパの旅
今年の春、私が若い頃在籍していた農林三課の吉田先輩と、一緒に海外旅行をしようという話が持ち上がった。
吉田先輩ご夫妻とは、私の在院25周年記念で香港へ旅行した時に、お付き合いをしていただいた仲である。 しかしそれからもう20年近くが過ぎてしまった。
最初はシベリア鉄道をウラジオストックからモスクワまで乗り、その後バルト3国のエストニアへでて首都タリンからフェリーでヘルシンキに渡ろうという計画をしたが、70才近いご夫妻の体力からシベリア鉄道完乗は無理と言うことで、ウラジオストックからイルクーツクへの部分乗車も検討したが、しかし、イルクーツクからヨーロッパにでるには一度日本に帰るのが結果的には便利と言うことになり、シベリア鉄道は諦めてヨーロッパ旅行に焦点を絞って実施することにした。
吉田先輩のご希望はドイツであり、同行する私の妻の希望は旧ユーゴースラビアのスロベニアと、英国の隣にあるアイルランドということで、それに私の希望の南ドイツを加えて計画を作ることにした。
その結果、スロベニアからイタリー経由でフランスとスイスのアルプスを回り、南ドイツからケルンに抜けてパリに寄って、そこから飛行機でアイルランドに飛び、最後はロンドンから帰るという一応の計画を頭の中で立てて、この計画に応じて飛行機を押さえることにした。
いつも格安航空券を依頼しているワールドリーダーのミカワさんに、ファックスを送って今回の行程を説明し、航空券を手配してもらうこととした。
吉田先輩の希望では、最初のヨーロッパ旅行は日本航空か全日空で行きたいということであったし、ヨーロッパ系の航空会社では、例えばエールフランスならパリ、英国航空ならロンドンと行きと帰りに必ず同じ都市を経由しなければならないので、成田からの行き帰り違う都市が選べて国内2社の内、安い料金がでている全日空を使うことにした。
最初の目的地をスロベニアの首都リュブリアナに定めたが、ヨーロッパの主要都市からリュブリアナに入るディスカウントの航空券が見つからず、やむを得ずスロベニアとの国境の町イタリアのトリエステを最初の目的地にした。
行きの飛行機は全日空でドイツのフランクフルトへ飛び、そこでルフトハンザの国内便に乗り換えてミュンヘンまで行き、さらにそこからトリエステに行く便があり、同じ5月30日の内にトリエステへ入ることができることが分かった。
ヨーロッパ内の移動はセーバーユーレイルパスという何人かが一緒に行動すれば割引になる列車のパスを使い、パリからアイルランド、またアイルランドからロンドンの間はアイルランドの航空会社エアーリンガスが発行している格安の航空券を使うことにした。
NATO軍の爆撃で飛行機が遅れ
6月に入ると少し航空料金が高くなるので、今回の旅行の出発は5月30日になった。
成田で吉田ご夫妻と合流し和食の朝食を食べてNH209便に乗り込んだ。
飛行機はほぼ定刻にフランクフルトに着き入国審査を終えて、ルフトハンザに乗り換えてミュンヘンに着いたが、乗り換えの時間が少なかったので急いでトリエステ行きの搭乗口に向かった。ところが一向に搭乗のアナウンスが無く、しばらくすると2時間遅れの掲示がでた。
夕食はトリエステで食べるつもりであったが、だんだんお腹がすいてきた。ところがここの搭乗口近くには簡単な売店があり、そこではサンドイッチと飲み物が売られているだけであった。そこでサンドイッチを買おうとすると、マルクがドルしか使えないといわれて、持っていたたった1枚の5ドル紙幣でサンドイッチが1パック買って、それを4人で分けて食べる始末であった。
実際は2時間も待たず1時間40分遅れで搭乗できた。その飛行機はルフトハンザではなく共同運行のドロミチというイタリアの会社の飛行機であった。搭乗してからの機長の挨拶では
「軍事上の理由でイタリアの空港が閉鎖され出発が遅れた。」ということであった。
考えてみれば軍事上の理由でイタリアの空港を使うとすれば、ユーゴースラビアへのNATO軍の爆撃以外には考えられないので、アドリア海を一飛びすれば戦場になるヨーロッパの距離を実感した。
飛行機の中で軽い食事にありつき約1時間飛んでトリエステの空港へ着くと、もう市内までのリムジンは終わっていた。そして空港には銀行や両替が無く、しばらくはタクシーも来なかった。
しかし、しばらく待つとタクシーが来て日本で予約したジョリホテルというホテルに行くことにした。トリエステの町はイタリア半島とバルカン半島に挟まれたアドリア海の一番奥深いところにあり、空港から町までは約30分、タクシーはベンツで女性の運転手だった。海岸に沿ってタクシーが走っていきトリエステの町の先に見える灯火はもうスロベニアだとタクシーの運転手が話してくれた。
ホテルに着いて両替というと円の両替はやっていないと言うことで、タクシー代約10万リラをホテルで借りてやっと運転手に払うことができた。
独伊二つのアイデンティティーを持つ町トリエステ
トリエステはオーストリア・ハンガリー帝国の領土であった港で、第1次世界大戦後はイタリア領となり、さらに第二次世界大戦後は米英とユーゴースラビアとの共同管理下に置かれ、1954年に再びイタリア領となった町である。
イタリアに住みイタリア人と結婚して<トリエステの坂道>という本を書いた須賀敦子さんは、トリエステの人たちは文化的にはドイツ語文化圏との精神的なつながりを全面的に断ち切るに至らず、言語的・人種的にはたえずイタリアに憧れるという二重性がトリエステの人のアイデンティティーであると書いている。
また、東西冷戦の象徴となった鉄のカーテンは、トリエステから東西ドイツの国境のあるバルト海までと言われて、鉄のカーテンの出発点になった町でもある。しかし、スロベニアがその一部を構成していた旧ユーゴースラビアは、東ヨーロッパの国々の中で、アルバニアとこの国だけは自力でナチスドイツからの解放をかちとっただけに、ソ連の干渉も跳ね返していて、鉄のカーテンも相当ほころんでいて、私がユーゴースラビアのザグレブを訪ねた1970年代には、数百万という出稼ぎ人が、西ヨーロッパに滞在していた。
翌日ジョリホテルの食堂でバイキング形式の朝食を済ませると、まずお金を引き出すために銀行を探した。前回の旅行で娘が使っていたシティバンクのカードが便利なことを痛感したので、今回はシティバンクのカードを準備した。
引き出し方は銀行のATMにカードを差し込むと英語、ドイツ語、イタリア語の表示がでるので、英語を押すと次の操作に進む様になっていたが、最初コンピュータ操作するという画面を押すと、スタート画面に戻ってしまうのであった。 そしてもう一度やり直してよく見るとウイズドローと言う文字があったので、多分引き出しはここだろうと押すと、次に8種類の金額が表示され、欲しい額を押すとお金が出てくる仕組みであることが分かった。
その後ヨーロッパでは大半のATMからお金を引き出せることが分かり、シティバンクのキャッシュカードは大変便利なものであることが実感された。
銀行でお金を引き出した後、ホテルで荷物を預けてからチェックアウトをすまして、国鉄駅に行きスロベニアの首都リュブリアナまでの列車の時間を確かめたところ、昨日から時間は12時19分発が12時5分発に変わったということであった。そして、スロベニアの国内列車のダイアはまだ来ていないというし、その列車の前にスロベニアに入る列車は無いというので、午前中に世界第二の鍾乳洞のあるポストイナにいく予定が狂ってしまって、午前中をトリエステの観光に充てることにした。
トリエステの中心はイタリア統一広場であり、この広場は港に面していて左右に政庁舎とロイド保険事務所がどっしりと構えていた。広場から山の手の方にいくと、古代ローマの野外劇場があるとガイドブックに書いてあり、そこへ行く道を聞くついでに側の階段の上にある教会らしい建物についても尋ねると、それがトリエステを代表するサン・ジュスト教会であった。
5〜6世紀に造られた二つあった教会の跡に、14世紀にこの教会をゴシック様式で再建したものである。この日5月31日は日曜日で教会の中はミサに訪れた人でいっぱいであった。荘厳な雰囲気のなかを余り歩き回るわけにもいかないので、教会の中を一回り見渡して外に出て、ローマ劇場に向かった。この劇場は2世紀に造られ半円形で野外劇場としては規模もそれほど大きくないものではないが6千人が収容できて、今から2千年あまり前にローマの人たちが居住した至る所に劇場があり、演劇を楽しんでいたということに感銘を覚えた。 イタリア語でカステッロと呼ばれるサン・ジュスト城は小高いところにあり、そこまで行く時間が無かったのでトリエステの国鉄駅に引き返すこととした。
旧ユーゴースラビアのスロベニアへ
旧ユーゴースラビアはモザイク国家と言われ、7つの国と国境を接し、6つの共和国からなり、5つの民族が住み、4つの言語を話し、3つの宗教を信じ、2つの文字を使うと言われ、それをレジスタンスの指導者チトーが一つの国にまとめてきたのであるが、チトーの死後、国は分裂し文化的・宗教的対立から内戦が続き、さらに今日のコソボの悲劇を招くに至ったのである。
私は今まで旧ユーゴースラビアは2回訪れている。最初は1970年代に友人と二人でミュンヘンからクロアチアのザグレブに行った時で、その時には東ヨーロッパとはいえ、その豊かさと自由度の大きさに驚いたのであった。また、文化的にはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下に有ったため、文字はローマ字でキリスト教もギリシャ正教系ではなくカトリックであり、ザグレブのゴシック様式の二つの尖塔を持つ教会の素晴らしさに目を見張り、ここは東欧ではなく西欧なのだということを感じたのであった。そして、その帰りに列車でスロベニアからオーストリアを通ってスイスのチューリッヒに入ったのであるが、スロベニアからオーストリアにかけてのアルプスの美しさだけが印象にあって、スロベニアについての他の記憶は全くなかった。
2回目は、1980年代に家族でウインを基点としてハンガリー、ルーマニア、ブルガリアと回りセルビアの首都ベオグラードに入ったが、その時、この町はクロアチアとは異なり宗教はギリシャ正教系のスラブ教会であり、文字もロシアと同じキリル文字で東欧の香を湛えた町で有るという印象であった。そしてその時続いて訪れたザグレブは、前回より近代化が進み大きなビルがある新市街が造られていたのを覚えている。その時もスロベニアを通過したのだが、その印象は全くない。
旧東ヨーロッパの優等生スロベニア
スロベニアは私が訪れたすぐ後に、クリントン大統領が訪れて旧東欧の中で最も近代化が進んでいると褒め称え、NATO入り候補国の第一に上げた国である。
スロベニアは面積20、253平方キロで四国を一回り大きくした広さ、人口は約2百万人で群馬県程度の小国であるが、イタリア、オーストリア、ハンガリー、クロアチアに国境を接するというヨーロッパの中での位置に恵まれている。
私がインターネットで申し込んでスロベニアから送られてきたパンフレットには、中央ヨーロッパにおける理想的なビジネス拠点のパーソナルチェックリストとして次の8点が満たされていると記述されていた。
@ 8億人の消費者を市場とするヨーロッパの中央に位置する。
A 交通システムと通信網が発達し、東西及び海を越えた市場に対応するインフラ構造を持つ。
B 昔から受け継がれてきた工業の伝統による安定した経済および経済成長、CEEメンバー中最も高い国内総生産。
C 優秀な外国語知識と各工業部門間のスムーズな関係を基盤に、常に新技術を適用可能の、高度な、専門的かつ積極性のある労働力。
D 低い税率
E 安定した金融制度。ヨーロッパの中央で最も高い信用度。
F 中欧自由貿易協定(CEFTA)メンバー、欧州連合(EU)の次回拡張時に予定されているメンバーシップ
G 中欧および東欧における最高の生活水準。過去と現在が隣り合わせの美しい自然の中にある国で、あなたとご家族の静かな生活を約束する
と強調されていた。
また、この国は観光面ではアルプスの山々、アドリア海、パンノニア平原そしてカルスト地形などの様々な地形に清水の流れる山間、湖、森の広がる高原、優良なワインの産地、温泉、療養所スキーリゾート、スキージャンプ場などがあり、観光地にはカジノが設営されていると宣伝している。
首都リュブリアナへ
トリエステの駅を定刻より少し遅れて出たハンガリーのブダペスト行きの列車は、最初アドリア海の海岸沿いにイタリアに戻るように進んだが、すぐ平地林の中に入っていった。1時間ほどするとポストイアに着き、ここで大勢の若者が乗り込んできた。そこで、英語で、
「ポストイアの鍾乳洞へどう行くのか。」と聞くと、
「駅から30分ほどかかるがタクシーはない。鍾乳洞の中には電車が走っていてそれに乗って見物ができる。」と教えてくれた。
また、1時間余り乗ると3時少し過ぎて列車はリュブリアナに到着した。
私と吉田さんの奥さんの二人でホテルを探しに行くことにして、駅で吉田さんと私の妻は荷物の番をしてもらった。最初に両替を駅でして、それから駅前の道にホテルの矢印の着いた看板をたどって探すのだが駅前にはホテルはなく、しばらく歩いて、1軒目のホテルでは満室ですと断られてしまった。
それから少し行ってやっと観光パンフに書かれていたツーリストホテルという3つ星のホテルを見つけて、部屋の中を見せてもらってバス付きで有ることを確認して、そこに泊まることにした。
しかし、ホテルを決めるまでに30分以上時間がかかったので、吉田さんと妻は何か事故でも有ったのではないかと心配したそうである。
「貴方はいつも知らない土地で行き当たりばったりに飛び込んでホテルを決めるが、今回は吉田さんご夫妻と一緒に旅行をしているのですから、歩いて探すのは止めて、駅で電話をするようにして決めて下さい。バス付の部屋と言うが4つ星、5つ星のホテルなら皆バス付でしょう。」と妻に言われてしまった。
ホテルが決まった後、町の中心の80メートルの小高い丘にあるリュブリアナ城へでかけることにした。
城への登り口がなかなか見つからず、険しい小道をやっと上っていくと少し広い道にでて、更に上に行くと自動車の走れる道にでてしまった。裏から上れば広い道が有ったのである。
スロベニアでは城はグラードでスラブ語の共通語である。この城は12世紀に建てられ17世紀に修復されてもので、城からは市内が一望され、建物の一部はレストランになっていた。 帰りは広い自動車道を降りて何度か道を聞きながらホテルへ帰ることができた。
帰り道でホテルツーリストの50メートルほど先にホリディインがあるのが見えて、妻は何故ここにしなかったがぼやくのであった。
夜はホテルで勧められたスロベニア料理の店に行ったが、中庭で空を見ながら飲むビールや地酒のワインは美味しかったが、料理はスロベニアらしさがいまいちで、美味しいかったグヤーシュも元はと言えばハンガリーが本場である。
その夜はワインが効いてぐっすりと眠ることができた。
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