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help RSS 海外旅行シベリアからドブロブニクまで7

<<   作成日時 : 2005/11/12 08:19   >>

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チューリッヒからミラノまでの旅です。

写真はミラノのドウモ

 ぶらり海外旅行アラカルト
(シベリアからドブロブニクまで 7)

パリ経由でチューリッヒへ
 ハンブルグ空港はターミナル4っあり、私たちの乗るゲートはターミナル4にあった。パリまで行く飛行機はエールフランスのエアバス319で、機内食はチーズサンドと赤ワインの簡単なものだった。
 機内で新聞がくばられ、私はフィガロを頼んだところ、パリ祭でシャンゼリゼを行進する、軍隊の行進順序が書いてあり、明日は7月14日だということを思い出した。
 7月14日といえばフランスの会計検査院は7月13日に検査報告を発表して、翌7月14日から調査官たちは皆バカンスにでかけて、院内には人影が無くなるのを思い出した。
 私もパリに在外研修で行っていた時には、7月14日以降は仕事にならないので、日本から家族を呼び寄せて約1ヶ月間ヨーロッパを旅行して回った。
 シャルル・ドゴール空港のターミナルは到着が2Dで、チューリッヒへ出発するターミナルが2Bであった。
 二つのターミナルの間は連絡バスもあるが遠くないので、カートを引っぱって歩いていくことにした。
 待合室で待っているとチューリヒに行く飛行機のゲートが突然24番から21番に変わり、フィンガーからではなく、バスで飛行機に乗り込むことになった。
 搭乗する飛行機もエール・フランスではなく共同運行ののブリット・エアーで40人乗りの小さい飛行機だった。出発も1時間以上遅れたが、感心に簡単な食事がもう一度でて、赤ワインだけはサービスしてくれた。

1泊だけのチューリッヒ
 飛行機はしばらく飛んでチューリッヒ空港に着いた。チューリッヒ空港は10数年前、東ヨーロッパを一人で旅行したとき、チェコのプラハから飛んだ空港だった。その時はスイスは素通りで、列車でバーゼルまで行って、そこからフランスに入って、ロレーンの首都ナンシーに行き、アールヌーボーのナンシー美術館でエミールガレやドーム兄弟のガラス作品をみて、その後タクシーでアールヌーボ建築の住宅を写真に撮った思い出がある。
 チューリッヒ空港駅は1980年にオープンした空港の直下にある駅で空と陸とのアクセスをスムーズにした画期的なシステムになっている。今では珍しくないがエスカレーターにそのままカートが乗せて到着ゲートから地下の空港駅に行ける便利な造りになっていた。空港駅からはジュネーブ、ベルン、、ローザンヌ、バーゼルなどへ直通列車が沢山でている。
 日本の成田空港も、計画された時にはチューリッヒ空港のようにアクセスの良い空港を目指したのであるが、地下の空港駅は開港後も長年水浸しになって放置されていたし、現在では京成電車と成田エキスプレスの駅になっているが、当初計画された成田新幹線は、過去に特記事項として決算検査報告に掲記されたように、長い間遊休していたが、施設の一部は成田エキスプレスの開通で活用されたものの、高架路線は工事が途中で放棄されたままになっていて、その「付け」は旧国鉄の赤字と一緒になって国民に回ってきている。
 今回はチューリッヒ泊まりなので、まず空港の銀行で100フランだけスイスフランを引き出してから、バス乗り場にでたが、いくつかのホテルの送迎バスが停まっていた。バスの運転手に交渉して国鉄の駅に近いアルレッテというホテルに泊まることにした。
 バスにはほかの客も乗っていたが、このバスはホテルの専属ではなく、携帯電話でホテルに連絡して空室を確かめ、値段と場所がお客の規模と合致すればそのホテルに連れて行くという方式で、一人15スイスフランのバス代を別に払わなければならなかった。 
 チューリッヒの落ち着いた町並みを眺めながらバスは進んだが、乗っていたお客が次々に降りて最後に私たちのホテルアルレッテに到着した。このホテルは外にでて少し行くとると遠目に国鉄駅が見える場所にあった。
 私は約20年前に友人と二人でヨーロッパを旅した時、当時のユーゴスラビア、現在のクロわチアの首都ザグレブから、夜行列車でオーストリアを経由して、この駅に着いた経験がある。チューリッヒは坂の多い町だということと、余り大きくない市立美術館にピカソの絵が沢山あって、初めて日本では1点か2点しか見られないピカソを沢山見て感激したのを覚えている。そして、その時は私はドイツ語は全く話せなかったが、店にはいってフランス語で話すと、ドイツ語圏なのにどの店でもすぐフランス語が返ってきて、スイス人はたいていドイツ語、フランス語、英語を話すというのが本当だと言うことを実感したのだった。
 スイスという国はウイリアム・テルの話で分かるように、アルプスという地形を利用して封建領主の支配から逃れて自主権を獲得した地方が集まってできた国である。東はチューリッヒを中心としたドイツ語圏、西はジュネーブを中心としたフランス語圏、南はルガノ、ロカルノのあるイタリア語圏に分かれている。そのほかに少ないがスイス独特のロマンシュ語という言語圏もあり、多言語国家なのに永世中立という理想で一つにまとまっている国である。
 ホテルアルレッテはこぢんまりしたホテルで、残念なことにバスタブのある部屋がなかったが、雨も降っていたので、これからほかのホテルを探すのも大変なので諦めてここに落ち着くことにした。
 夕食はカフェテリア方式の中華の店が駅の近くにあるのでそこに入り、まず生ビール、それからチャーハン、焼きそば、春巻きと注文して、隣の日本食カウンターに行くと寿司や焼鳥もあったので、焼き鳥と赤ワインも頼んだ。すると、空港で100フランしか換えて無くて、その上バス代をはらったのでお金が無くなってしまい、手持ちのドイツマルクを足してやっと勘定を済ませた。
 翌日コモ湖で途中下車をしてミラノまで行く予定だったので、国鉄駅に行き翌日の切符を買うことにしたが、日本の銀行のように、番号札を引いて待つやり方だった。ヨーロッパの人は日本人に比べて切符を買うのが下手で、日本人の場合、あらかじめ備え付けてある時刻表をみて乗る列車を決めてから窓口に行くが、彼らは事前準備なしできて窓口で係員と相談して乗る列車を決めているので、ここで50分も待たされてしまった。
 前回吉田先輩ご夫妻とベルンからチューリッヒで乗り換えて、ドイツのボーデン湖へむかった時に、妻はご夫妻と一緒にこの駅の近くを数
10分散歩しただけで、今回も駅とホテルを往復に終わって妻は市内見学にはどこにも行けなかった。
 
アルプスを抜けて景色の美しいコモ湖へ
 翌7月14日はホテルで朝食を済ませてから、駅まで近いので鞄をごろごろ引いて国鉄駅に向かった。8時33分にチューリッヒ駅をでた列車インターシティ号は乗客は少なく、初めは左手のチューリッヒ湖に沿って走ったがやがてアルプス山中に入りイタリア語圏ののルガノへと進んだ。私はアルプスは鉄道で何度も通っているがいつもはシンプロントンネルをくぐるルートなのでこのルートは初めてである。途中万年雪をいただいたアルプスの景色を楽しみながらコモ湖に向かった。
 漢字の「人」という形をしているコモ湖はイタリアとスイスの国境に近くイタリアで一番美しい湖と言われている。私は近年ほぼ毎年イタリアへ旅行しているが「イタリア旅行をするならば、コモ湖の景色は是非眺めておかなければ。」とイタリアに行った人たちにいわれながら、コモ湖は北イタリアの中心地ミラノからも少し離れているためなかなか機会が無く、この湖は初めてであった。
 コモの町はローマ支配のもとで既に栄えた町で、11世紀にはその繁栄は絶頂に達したといわれている。1127年この町はミラノによって破壊されたが、その後フリードリッヒ赤ひげ皇帝によって再建され、1355年にはミラノの支配下に入り後述するミラノと同じ運命をたどったという。
コモ駅のすぐ手前がスイスとイタリアの国境であり、スイスは永世中立国ということでEUに加盟していないため、国境ではスイスとイタリアの両国の入管と税関の係員が乗り込んできてパスポートのチェックがあった。
 国境を越えて列車は定刻の12時7分にコモの駅に着いた。コモの駅でおりてから駅員に教えてもらって、コモ湖が一望に見渡せる山に上る登山電車の駅に向かった。
 バスが駅に着くとすぐ目の前で登山電車は出発してしまった。登山電車は15分おきにでるというので丁度昼時で食事にでかけるのも面倒だと、駅の売店でジュースとサンドイッチを買って済ませてしまった。
 登山電車はかなり高い山の上まで上るが、残念なことに、立木に遮られてコモ湖の一部しか見えなかった。
 それに加えてその時私は白内障で左目の視力が落ちていたし、右目は手術後曇りがでる時期に丁度ぶつかって、美しい景色がはっきり見えなかった。そういう事情でコモ湖はもう一度訪れなければと考えている。
 今回は時間を節約して、船で湖を遊覧することも眺めの良いレストランで食事を楽しむこともやらなかった。
 再び登山電車で山を下って、湖の畔を少し歩いてから、町を抜けて駅に戻ることにした。 
 町の人に駅に行く道を聞くと、二つある駅のどちらかと聞かれてしまい、コモからは国鉄のほかにミラノへでる私鉄もあるということが分かった。私たちはに荷物を預けているので国鉄の駅にもどったが、その途中で日本人の家族連れに、コモ湖までの道を聞かれて湖までの道と、登山電車に乗るのが良いという事を教えてあげた。

 ファッションとオペラの町 ミラノ
 コモから45分ほどかかってミラノ・スタチオーネ・チェントラーレ(ミラノ中央駅)と呼ばれる中央駅に着いた。この駅は大理石作りの壮大な建築物で、私はこの駅が駅舎としては世界最高の豪華さだと思っている。
 ミラノは紀元前222年にローマ帝国に占領されてからその支配下にあったが、ゲルマンの大移動後は様々な他民族に支配に苦しんだが、ミラノ大司教を中心とした自由都市として独立をかちとった。そして、13世紀からはビスコンティ家が権力を確立しやがてミラノ公国になった。
 しかし1500年以降はフランス、スペイン、オーストリアと長年他国の支配を受け続けたが、1861年のイタリア統一で、イタリア王国の一部となった。
  ミラノの駅の周辺にはホテルが沢山あったので、妻に
「とりあえず荷物を預けてからホテル探しをやろう。」というと、妻は、
「重い方の鞄は私が引っぱっていく。」と主張するので、しぶしぶ探しにでかけた。この時は運良く2軒目で3つ星でバスタブのあるメトローポールというホテルが見つかった。このホテルは中央駅の右手の出口をでて少し歩くと見える便利なホテルであった。
 これからの行程は、イタリア半島の中頃にありアドリア海に面したアンコーナという町で、そこから、船でアドリア海を渡りクロアチアへ行くつもりだった。これから安売りのチケットを売っている店が沢山ある大都市はないので、ここで日本にかえる航空券を手配しておかなければならなかった。そこで、ホテルの人に、旅行代理店はどこに多いかと聞くと、ドーモに向かうベネチア通りに沢山あるということでそこまで歩来ながら探しに行くことにした。
 まず最初に入った店はアリタリアのチケット専門で日本まで一人1400ドルということだったので、もっと安い店を探すことにした。
 2軒目はドウモに近く店員の応対も良かったのでここで探すことにした。しかし、この店のコンピュータではなかなか航空会社との接触がうまくいかなくて、電話で直接航空会社に聞いたくれたが、 ここでも安い大韓航空とアエロフロート(ロシア航空)は空席が無く、7月21日発のエール・フランスが900ドル、22日発のスイスエアーは1000ドル、23日発の英国航空で1000ドルということだったので、23日のロンドン経由で帰ることに決めた。
一応空席は見つかったが、電話なのですぐOKがとれす、この日は土曜日なので、来週の月曜日17日に電話をかけて予約の確認をすることにして、ビザカードの番号を教えて店をでた。
 一旦ホテルに帰り、一風呂浴びてから夕食に出かけたが、ミラノ中央駅付近には中華料理店が沢山あり、まるで中華料理店がどこの街にも沢山あるパリの様だったので、ホテルの近くの大中華飯店という店に入り、日本人向けと書いてる2人分5万リラという定食をビール、赤ワインと一緒に頼んだが、量が多くて食べきれなかった。そして、食後のジャスミンティで終わりにしようと思ったがもの足りず、最後に高梁酒を二杯飲んで満足してホテルに帰った。
 翌15日はレオナルド.ダ.ビンチの最後の晩餐の壁画のあるサンタ・マリア・デレ・グラッチエ教会に行こうとして、ホテルの受付に道を聞いたところ、
「ラスト・サパーか?」と聞かれてしまった。
確かに最後の晩餐は英語で言えば味も素っ気もないラスト・サパーである。受付の話によると修復の終わった最後の晩餐を見るためには予約が必要で、今日行ってすぐに見られるものではないということであった。
 ミラノは航空券の関係で帰りによらなければならないので、最後の晩餐はその時に見ることにした。そこで、娘と連絡をとるため、ローマのアサキさんという友達の家に電話をかけたところ、電話にでたお母さんは娘はアサキさんともう一人の日本からきた友達の三人でロンドンの友人フランチェスコというイタリア人の家に泊まりがけで遊びにいっているということと、フランチェスコの家の電話番号を教えてくれた。
 日本から電話したとき娘がアドリア海沿岸のアンコーナに遊びに行くとは聞いていたが、実際泊まっているところは、少しローマ寄りの町イエシであった。そこでフランチェスコの家に電話して昼の列車でそちらに向かうと連絡して、イエシにホテルをとってもらった。
 列車は午前11時5分発なので少し時間があるので、メトロと市電の共通回数券カルネを買って、まずミラノの代表的建築物ドウモの見物に出かけた。
ドウモはバチカンのサン・ピエトロ寺院に次ぐ世界第2の大きさを誇る、カトリックのカテドラルである。1387年に着工して19世紀まで500年をかけて建築が行われたという。
 ガウディが建てたバルセロナのサクラダ・ファミリア教会のように未だに完成していない教会もあるが、ヨーロッパの教会建築は100年以上の建築期間を費やすものも稀ではない。  私たちは市電に乗って窓の外の景色を眺めていると4つ目の停留所がドウモの前だった。
 中にはいると52本の柱が壮観で、ステンドグラスは大半が15世紀の作品と言うことであった。
 建物の尖端に置かれたマリア像までは108メートルの高さがあるというが、間口92メートル、奥行き157メートルの壮大な建物が白い大理石で輝いていた。
 外にでて何枚か写真を撮ったが、そばの土産物屋で売っているプラスティック製のドウモの絵皿が私たちの写真よりドウモをうまく写しているように見えたので、それを買って帰り、居間に飾ることにした。
 ホテルにかえり、荷物をまとめてスタチオーネ・チェントラーレへ向かった。

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