海外旅行中米、キューバ編2
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作成日時 : 2005/11/16 06:59
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コスタリカの旅です。
写真はコスタリカの民族舞踊
ぶらり海外旅行・ア・ラ・カルト(中米、キューバ編2)
コスタリカの自然保護区モンテ・ベルデへ
4月25日は早朝6時の出発でサン・ホセまでの飛行であった。モーニングコールを頼んでおいたが、その前に起きて午前3時過ぎにホテルをでてタクシーを拾って空港に行き、パナマ発6時1分のTA522便に乗り込み時差1時間でサン・ホセ空港に6時3分に到着した。
今回の旅行はサン・ホセからサン・サルバドール経由でハバナに飛びキューバ滞在後同じルートでサン・ホセに戻ってくるので、コスタリカのことは二つに分けず、連続して書くことにする。
サン・ホセのホテルは日本人の阿部さんが勤務するエラドゥーラというホテルで、空港からホテルに行くとモンテ・ベルデ自然保護区に行く車が私達をピックアップする手配をしてくれていた。
このホテルは5つ星で客室は本館とは別に離れ形式になっていて、プール、サウナ、カジノがあり、カジノは日中から営業しているリゾートホテルであり、独り旅ではとても泊まれない値段であった。
早朝の到着なのでホテルに入って朝食を現金で食べたが、プール脇のゆったりとした食堂で、フルーツのデザートが沢山出ているバイキング式の食事を食べた。
食事後時間があったので、ホテルのコンピューターで日本のヤフーを見ようとしたが、日本語のフォントが入っていなかったので見ることが出来ず、米国のヤフーから英文毎日を見ていた所、尼崎の列車事故のニュースが入っていた。これは第一報だったので列車の転覆の写真は見たが100人を越える大事故になるとは予想できなかった。
ホテルに迎えに来た車は小型バスで、途中で3人の外国人女性をピックアップしてコスタリカ中央部の山地を通る舗装道路を走ったが、この道路の舗装は厚くなかったが手入れは良く、走り具合も良かった。しかし最後の90キロは未舗装の悪路でがたがたと酷い揺れが続いた。他の3人は途中のホテルで降りて、私たちはクラウド・フォレスト・ロッジというホテルに入った。
このホテルは山小屋風でピロティの上に建てられたテラスからの眺めが良く、渓谷全体が見渡せるようになっていた。
エコーツアリズム発祥の国コスタリカ
コスタリカは正式国名がコスタリカ共和国で面積は約5万1100平方キロ、九州と四国を合わせたくらいの広さである。人口は430万で他にニカラグア難民が10%以上永住している。
住民はスペイン系を主とする白人とその混血が95%を占め残りは黒人と先住民である。
他のラテンアメリカ諸国と同じように宗教はカトリックが主で公用語はスペイン語である。
コスタリカは,スペイン語で〈豊かな海岸〉を意味し,南東でパナマに,北でニカラグアに国境を接していて北緯8度から11度に位置している。パナマとの国境地帯は高原で,ニカラグアとの国境はニカラグア湖と,そこからカリブ海に流れるサン・フアン川とが大部分を占めている。東部はカリブ海に面しており,西部は太平洋に開いていて、コスタリカは地理的には熱帯に属しているが、気候は高地が多く穏和である。
南北両アメリカ大陸を結ぶコスタリカは、太平洋岸にはニコヤ湾やドゥルセ湾を含む出入に富んだ低湿地帯が広がっており、海岸線はしばしばマングローブの林に覆われている。カリブ海側も低地からなっている。同国の中心をなすのは、北西から南東に走る三つの山脈とそれらにはさまれた高地で山脈中には火山が多く、最高峰は3819メートルのチリポ・グランデである。この地帯は、中部渓谷地帯ないし中部高原と呼ばれていて、首都サン・ホセはこの中部渓谷にあり、同国の農業をはじめとする経済活動の多くもこの地帯に集中している。
コスタリカは気候的には熱帯に属するが雨季と乾季があり、年平均気温は地域的にかなり異なっている。ただし,カリブ海側では北東風が湿気を運んでくるために、年間を通じて雨が降る。太平洋岸の南部はかつてバナナの主要栽培地として知られていたが、1930年代以降バナナの主産地はカリブ海側に移っている。中央渓谷ではコーヒーやサトウキビの栽培が盛んである。なお同国の面積の半分近くは広葉樹林に覆われている。
この国は多様な熱帯生態系と生物多様性が発達していることで知られていて、その中でも北西部の熱帯雲霧林に包まれた地にあるモンテ・ベルデ(緑の山林)はコスタリカに於ける自然保護の原点であり、熱帯生態系の保全と地域振興に取り組んできた地帯である。ここはまた今日のエコーツアリズムの先進地でもある。
1980年頃からエコーツアリズムはこの地帯で農業に継ぐ第二の産業となり、現在大中規模のホテルが15軒、小規模ホテルとペンションが20軒も建てられていて、それに伴うガイドも雇用の場となっている。
モンテ・ベルデは民間のナショナル・トラストによる保護区で、1951年自由を求めてやってきた米国のクエカー教徒によって作られた保護区である。
クエカー教徒は17世紀イングランドのピューリタン革命の中で発生したピューリタン的プロテスタントの一派で、静寂の中で神を待ちのぞみ深く内面的な体験によって「内なる光」を感受し、いっさいの伝統的外枠をとり除き,霊的な境地において真理をとらえるという教義である。
ホテルに着いた私たちは簡単な食事を済ませてから、ホテルの経営する森林内を走る観覧車に乗ることにして、タクシーで切符売り場に向かった。
この観覧車は二人乗りのスキーリフトのようなもので、森林内をゆっくりと進み、樹木や草花、鳥類や蝶々がゆっくりと観察できるようになっていた。
十数年も林野庁や建設省砂防工事の検査をやってきた私だが、植物や鳥類、昆虫の知識に関しては殆ど何も知らなかった。すがすがしい緑と飛び交う蝶や小鳥の中をゆっくりと進む観覧車で自然を満喫したが、その詳細を書くことができないのはお恥ずかしい次第である。
その夜は山小屋風の食堂で、ゆっくりとチリワインを飲みながらコスタリカ風の夕食を楽しんだ。
森林の空中遊泳キャノウピー
翌日は午前中しか観光の時間がないので、ホテルで経営しているキャノウピーに出かけることにした。
CANOPYとは戦闘機の操縦席の上についている透明のカバーのことであるが、高い木の間に張られた鋼製のロープに滑車をつけて滑っていくのが飛行機の様な感覚なのでそう呼ばれているのであろう。
ホテルの下の部屋に装具室があり、ここで鉄塔を組み立てる職人の様な太いフックがついたベルトを腰に巻き付け、足ごしらえをしてからヘルメット手袋という重装備になって、出発地点まで10数分の山道を歩いて行き、デッキのある木までたどり着いた。ここでフックをロープにかけて10メートル近い木の梯子をよじ登った。私たちの他にイタリア人の若いカップルがいて、ガイドは3人であった。フックは複数ついていて、どこに居る時でも一本は必ず固定物に引っかけてあって安全を確保する様になっていた。
動作は緩慢な私だが工事検査の際高い所によじ登ることはなれているので、時間をかけてデッキにたどり着いた。
メンバーは私たちを含めて7人で、最初にガイドの一人が先行しその後から観光客が行った。右手を後ろに回してワイヤーロープをつかむのだが、それは手を添えるだけで握ってはいけないのを、私は最初の場所で握ってしまったので、あと5メートルぐらいのところで滑車が止まってしまい、空中高くぶら下がりの状態になってしまった。先行したガイドが助けに来てくれて次のデッキまで引っ張り上げてくれた。しかし、空中高く滑っていくのは素晴らしい快感であった。
全員がデッキに移るとまた空中を滑って移動することを繰り返し、幾つかのデッキを経て一旦地上に降りた。降りる時はロープをお尻に回して右手でゆっくりとゆるめながら速度を調整する登山のような方法で、20メートルぐらいの高さの場所を降りるのであった。
二回目にまたデッキに登り滑ろうとすると、ガイドに今回は右手でブレーキをかけないと速い速度でデッキに飛び込むことになると言われて、途中でブレーキをかけたが、手前過ぎてまたデッキの5メートルほど前でストップしてしまった。すぐガイドが助けに来てくれたが、自力で脱出できず高い所でぶら下がっているのは少し心細かった。何回か滑空を繰り返した後、ロープを使って地上におりて、キャノウピーは終わりになった。70歳を過ぎた私にはこのような冒険は多分最後だなと思った。
新鮮な森の空気を吸いながら基地に帰り、重装備を外してもらいすぐ上のホテルに戻った。サン・ホセに帰るまでには少し時間があるので軽い昼食を食べた後テラスからセットしてある水飲み場に近寄ってくる可愛い小鳥達を眺めながら時間を費やした。
1時半に迎えの車が来たが、乗客は私たち以外に米国人の男性が一人だった。彼は中南米は色々な国を回っているらしく、運転手にスペイン語でコスタリカと比べた各国の情報を話し合っていた。
帰り道は行きと同じ道路だったが、運転手が道の凹凸を避けて上手く運転してくれたおかげで、未舗装の道路も比較的快適に走ることができた。
ホテル・エラドゥーラに帰り着いて早速インターネットを見ようとしたが、ホテルのロビーにあったコンピューターでは英語しか見ることが出来なかった。すると、日本人のかなりの年の従業員がでてきて相談に乗ってくれ、インターネット用のコンピューターがあるビジネスセンターに連れて行ってくれた。
そこにも日本語のフォントが入っていなかったので、係の女性がメカニックの女性を呼んでくれて、彼女がCDから日本語のフォントをインストールしてくれて、やっと日本にメールを送ることが出来た。
「地球の歩き方」にはホテルの前にスーパーがあると書いてあったが、ホテルの前は高速道路で歩道橋もなく、高速で走る車の合間を縫って渡らなければならなかった。ここでテキラとそれを割るコーラにつまみのハムを買いホテルに戻った。
この日の夜はタクシーで市内にでかけ、サンチョ・パンサ(ドンキ・ホーテの従者)という名前のスペインレストランに入った。
ビールはチェコ風のピルゼンが美味しく、メニューに生ハムのハモンセラーノがありこれも特上の味だった。チリワインのシャルドネとバエリアを頼んだが、バエリアはスペイン風の味付けで少し塩からかった。
翌朝は果物たっぷりのバイキング式朝食を食べてから、ホテルで荷物を預けてタクシーで市内に行き、ビルの11階にある翡翠博物館を見物した。コスタリカやパナマではコロンブス以前は翡翠を権力を象徴する装飾品として使っていて、ここにはアメリカ大陸最大と言われる翡翠のペンダントもあった。しかし我々がなじんでいる中国産の翡翠よりは色が濃く、人間や鳥、蛇などの細工物はあるが、中国の翡翠のように手の込んだ細工は見られなかった。帰り道はタクシーでホテルに寄り荷物をとって空港に行きハバナ行きのTACAで飛ぶことにした。
今回の旅行ではサン・ホセからキューバに行きまたサン・ホセに戻るという行程だったので、旅行記は先にコスタリカについて書いて、後からキューバについて書くことにしたい。
軍隊の無い国コスタリカ
コスタリカは1502年コロンブスにより発見されて1570代からスペインのグァテマラ総督府の統治下にあったが、1821年スペインより独立しその後1823年中米諸州連合結成したが1848年中米諸州連合より分離独立した。
1929年米国から始まった世界恐慌はコスタリカにも及び、1930年代の大不況はコーヒー価格の下落を通じてコスタリカに強い影響を与え、同国は長期にわたる経済危機を経験した。そのうえ、第2次世界大戦後の冷戦の開始が作用して、1948年には国内で左右の対立が激化し、ほとんど内戦状況に陥ることになった。中道左派の政治家ホセ・フィゲレスはこのような国内対立の緩和策の実行に成功し、対立の元となる軍隊の保有を禁止した現行憲法が、1949年に制定された。
コスタリカ共和国憲法第12条
常設の組織としての軍隊はこれを禁止する。公の秩序の監視と維持に必要な警察力はこれを保持する。米大陸内の協定または国内防衛上のためにのみ軍事力を組織することができる。これらはいずれも常時文民の権力に従属し、個別、集団の如何を問わず、いかなる示威行為あるいは(戦争の)布告も審議することができない。
その後のコスタリカの政治は,強力な民族解放党と、その他の諸政党との対立を基軸にして展開してきた。フィゲレス自身は1948年から翌年にかけて政権を掌握した後、53年から58年に、また70年から74年にかけて大統領に選出され、銀行国有化、工業化促進、国内価格安定政策等を実施した。民族解放党は62年から66年、74年から78年にかけて、自党の候補者を大統領に当選させている。この間、1960年にはコスタリカは中米共同市場に参加して域内での自由貿易の活発化をはかり、米国を中心とした外国資本の流入を進めて、経済の近代化を推し進めた。このことはまた、同国における中産階級の比重を増大させることになった。
コスタリカは中央アメリカ諸国中で政治的にはもっとも安定し、社会的紛争の原因となる貧富の格差がもっとも小さく、教育水準も中米のなかでもっとも高く、相対的に経済的な豊かさを誇ってきたが、近年になって主要輸出品であるコーヒーの国際価格が下落し、また原油の輸入価格の上昇もあって、経済面での停滞が生じている。また、70年代末以来の中米各地での紛争激化と無縁でいることができず、ニカラグアの反政府ゲリラとの関係が深まるにつれて、同国との関係が尖鋭化した。しかし、83年には改めて中立国家を宣言し、86年に大統領に就任した国民解放党のオスカル・アリアス・サンチェスは,積極的に中米紛争解決に努力し、87年度のノーベル平和賞を授与された。
現在の大統領はアベル・パチェコ・デ・ラ・エスプリエジャ氏で2002年5月から2006年5月までの任期4年で再選は禁止されている。
軍隊のない分の予算は教育を重点に支出されラテンアメリカでも高い教育水準を誇っているが、しかしコスタリカは決して理想の国ではなく日本の外務省によれば、次のような情報がある。
「2004年後半、歴代の大統領の汚職問題が表面化して、米州機構OAS事務総長に就任したばかりのロドリゲス前大統領及びカルデロン元大統領が逮捕・拘留され、ロドリゲス氏はOAS事務総長を辞任した。また、その他の元大統領及び現職の国会議員等にも容疑が拡大する様相を呈している。」
現在コスタリカは米国と中央アメリカの自由貿易協定(FTA)の交渉を終え、議会の批准を待つ状況になっている。
このように見ていくとコスタリカの軍隊を持たないと言うことだけ見れば理想の国と思われるが、米州機構の事務局長を出していたことや、FTAを米国と締結する方向にあることから、広い意味での米国の傘の下での「平和」といえそうである。
キューバから帰って
5月5日は12時5分にTACAグループのLR623便でハバナをたって、サン・ホセ空港に14時41分に到着した。
ホテルで日本のインターネットを見て尼崎の列車事故が大惨事であったことも分かり、日本にメールを送って無事旅行を続けて居ることもしらせた。
その夜は市内にでかけヌエストラ・ティエラ(我々の土地)というコスタリカ料理の店で、伊勢エビやステーキなどの郷土料理を食べたがワインはチリワインだった。
翌日は市内観光でタクシーを拾って国立劇場へでかけた。国立劇場は1880年から1889年にかけて、ヨーロッパの一流技師が参加して作られたと言われている。
劇場に入ると左手に喫茶室があり、ここのコーヒーは美味しいという評判なので、まずここでコスタリカのエキスプレッソコーヒーを頼んだが素晴らしい味だった。
劇場はオペラ座形式でパリのオペラ座を真似て作られていて、正面が貴賓席になっていた。休憩ロビーが見応えがあり天井のフレスコ画はモスクワのオペラ座と同じ画家が画いたと言われている。パナマの国立劇場も素晴らしかったが、こちらの方が一段上だと感じた。
次にすぐ近くの文化広場にあるコスタリカ中央銀行博物館に入った。コスタリカはラテンアメリカでは比較的早い時代から法律で文化財を保護してきたため、質の良い展示物が陳列されている。地下一階にある貨幣博物館と展示ギャラリーでは、コスタリカが発行した通貨や人力での製造過程が見られ、地下2〜3階では5世紀からスペイン人が侵入した16世紀頃までの金の装飾品が展示されていて、展示物は蛇やトカゲそれに海老、蟹などの海産物をかたち造ったもので、その鋳造過程も模型で見ることが出来た。
丁度昼時だったのでエルプエブロというお土産品やレストランが集まっている市場に車で向かったが、目指す美味しそうな店は見あたらなかったので、タクシーを捉まえてコスタリカ銀行まで戻ろうと乗り込んだ。
ところがタクシーが相当走って連れて行った所は街外れのコスタリカ銀行の支店だった。お金を下ろすのではないと運転手に行って本店まで戻ったが、かなりの距離なのにタクシー代は米ドルで3ドルだった。
そこから商店の人に教えてもらってシェフの大きな肖像画が飾ってあるイタリア料理店に行き、ビールを飲んでからスパゲッティを頼んだが、ここの店も大変良い味だった。
帰りはタクシーに乗ったがメーターは5ドル分ぐらいなのに、ホテル・エラドゥーラというと10ドルが相場らしく、10ドル取られてしまった。
この国では全ての店での支払いに米ドルが通じるので便利であるが、タクシーは観光客用の値段があるようである。
その夜は旧国会議事堂を中心とした建築物をレストランや劇場に改装した民族劇場に出かけた。
ホテルでピックアップしてもらってゲートを入ると、入り口にマリアという娘が待っていてひょうきんに観光客を子供扱いにして、英語とスペイン語で冗談を言いながら案内をしてくれた。
旧国会議事堂は小さな建物で大統領や政治家の写真が飾られていて、軍隊を廃止しした時の大統領ホセ・フィゲレスと、ノーベル平和賞を受けたオスカル・アリアス・サンチェスの前で彼等の経歴を説明をしてくれた。
劇場ではコスタリカの歌と踊りを寸劇風に上演していて、ラテンアメリカと言っても各国が独自の音楽や踊りを持っていて、それぞれに素晴らしいことが分かった。
音楽を民族楽器で演奏していたグループはバイキング式食事の最中も3人で木琴を奏でてくれた。しかし、食事はたいしたものではなくアルコールも付かなかったのは残念だった。
5月7日は軍隊が廃止される前までは陸軍の司令部だったという、国立博物館にでかけた。
平屋の展示場には先史時代からスペイン植民地時代の土器、石器から家具、装飾品までが並んでいたが、内容は銀行博物館の方がずっと立派だった。但し地下にある蝶の放し飼い施設は、森林の中を色々な蝶が自由に飛んでいるのを見る仕掛けになっていて素晴らしかった。
本当のコスタリカの選挙方式
国立博物館の先にあるこぢんまりとした大統領官邸を外から眺めてからコスタリカ最高選挙裁判所の前を通った。
1948年の内戦が同年の大統領選挙に原因があったため、コスタリカは選挙を公正に行うという点では選挙の為の特別裁判所を持っていて、選挙に対する判断は司法裁判所でなくここで行われる。
日本では衆議院選挙で二人の候補者が小選挙区と比例区に交代で立候補するのをコスタリカ方式と呼んでいるが、日本とは全く異なりコスタリカの政治体制は1949年の憲法によって規定されていて、大統領と一院制議会は4年ごとに同時に直接選挙で選ばれる。コスタリカには小選挙区はなく7つの州に別れた大選挙区の拘束名簿式比例代表制で国会議員が選ばれ、議員と地元の癒着を防ぐため同一選挙区の連続再選が禁止されている。なお大統領は連続再選禁止、副大統領は次期大統領に立候補禁止となっている。また選挙権は世界の平均年齢より下の満18歳である
日本の小選挙区は正に議員が地元の利益しか考えないような選挙方式で、大田区の様に一つの特別区がふたつの選挙区に分割されるような方式をとっている国が、コスタリカの名前を使うことはコスタリカに対して恥ずかしい次第である。
最高選挙裁判所の斜め前にある国立図書館と同居している国立美術館はこの日は休館日だったので、隣の文部科学省の様な役所と同居しているムセオ・デ・アルテ・イ・ディセニョ・コンテンポラリオ(現代芸術、素描美術館)に入ったがここは現代的な写真や絵画が飾ってあった。
この日はコスタリカ最後の日でホテルで昼食を食べるので、「さくら」と言う日本食堂に入ったが、すぐ出来るものが良いだろうカレーライスを頼んだ所、多分ご飯を炊くところから始めたのであろう、ずいぶん時間がかかっていらいらしたが、味は一応美味しかった。
ホテルから連絡バスに乗り空港に向かい、一人26ドルの出国税を払ってサン・ホセ17時18分のLR602便でロサンゼルスに向かった。
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under high frontier
height of over 50 metresCloud Rain Forest, Monteverde, Costa Rica. (付記)/photo by Agnes
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MOMENT編集 2005/11/21 10:50 |