海外旅行中米キューバ編4(2005年)
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作成日時 : 2005/11/18 06:58
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キューバの旅です。
写真は弾痕の残るモンカダ兵営
ぶらり海外旅行アラカルト(中米キューバ編4)
ハバナのメーデーに百万を超す大群衆
4月30日朝Kさんが宮本さん宅に電話すると、ガイドのアレク氏が9時30分にホテルに来てこの日の観光を案内してくれることになった。
まず10時に革命博物館(旧大統領邸)に向かった。ここにはカストロ達がメキシコからキューバに上陸したヨット・グランマ(お祖母さん)や反革命軍の船を沈めた戦車が陳列されていた。
昼食はアレク氏の案内でアスタル・ドーニャ・カルメラという屋外にテーブルを設えたレストランに入ったが、ロブスターのローストが素晴らしい味だった。
この日は私が疲れていたので、Kさんだけが市内見物をすることにして、夜はエル・パシオ・レストランテというところでキューバ音楽を聴くことにした。
ここは中庭でバンドが演奏されベース、ギター2丁、テナーサックス、マラカス、コンボの編成だったが、観光客用にシェルト・リンドなど有名な音楽も演奏された。
キューバの音楽は「スペインとアフリカの非常に不幸な結婚から生まれた褐色の美女」と呼ばれ、キューバ音楽の特徴はイギリスのカントリーダンスがハイチのフランス人を通じてもたらされた「コントラダンサ」が初めで、その後アルゼンティンタンゴの源流となった「アバネラ(ハバネラ)」、「ルンバ」の原形となった早いテンポのアフリカのリズムが、上品なポップなものに変わり「ソン」というリズムになった。「ソン」の歌の部分やアドリブが独立して「マンボ」になり、また「チャチャチャ」になった、そしてニューヨーク生まれのサルサに変わった。
そして、日が暮れると、至る所にあるレストランや食堂で小編成の生バンドがにぎやかに演奏を繰り広げている。音楽が街中にあふれていると言う点ではキューバが最も楽しい国では無いだろうか。
5月1日はメーデー当日である。7時起床して朝食を済ませてロビーに行くとテレビは既にメーデーの演説を放送していたが、カストロの演説はまだ後と言うことであった。
8時30分にホテルを出発してタクシーで会場の近くまで行ったが、演説台までは大群衆で近づけなかった。
キューバの人口は約千百万人だがその1割以上がこの会場に集まっていると言われている。
会場では各所に設けられたスピーカが大音響でカストロの演説を放送し、それに答えて群衆は歓迎の旗を打ち振る熱気のある集会だった。
ここでキューバの経済状態と乏しき中で平等を実行し、国民の支持を得ているカストロ政府の政策について述べることにする。
キューバの社会は革命によって一変した。革命前に存在していた階級による貧富の差はなくなり,都市と農村の間に存在した発展の格差も是正されつつある。憲法によって労働の意欲がある者はすべて雇用が保障されており、老年退職者には年金が支給されている。教育と医療は無料で、革命後のこれらの分野の発展と普及は目覚ましい。特にキューバの医療、薬学の態勢は先進国をしのぐものがあり、現在でも数万人を下らない医師団をラテンアメリカのみならず発展途上国に派遣しており、彼等は各地で赤ひげの医者として原住民に奉仕していて、キューバの国際的権威の源となっている。またキューバが誇る薬の三大バイオとは、B型肝炎ワクチン、髄膜炎ワクチン、インターフェロン・アルファ・2Bである。
一方、ベルリンの壁の崩壊に始まるソ連・東欧社会主義国の変化により、同盟国でかつ主要貿易相手国を失い経済的苦境に陥ったキューバは,冷戦後一段と強まったアメリカ合衆国の経済封鎖のもとで、新たな国際的対応を迫られた。過去のキューバの産業は、砂糖、タバコ、コーヒー、かんきつ類、牧畜などの農牧産業とニッケル等の鉱業、それに食品加工、繊維、肥料、セメント、造船、エレクトロニクス、製鉄など広い分野にわたる工業、エビなどの漁業であった。しかし米国への砂糖の輸出が外貨収入の基礎であった。キューバ革命後はカストロは平等主義を徹底化し、社会主義と共産主義を並行して建設するという、急進的な経済路線をとっていたが、米国への砂糖輸出が出来なくなった時には旧ソ連の肩代わりでキューバ経済が支えられてきた。しかし当初の経済建設路線が失敗に帰すると、ソ連・東欧型の社会主義経済建設に沿った現実的な路線へと改め、1972年にはソ連,東欧諸国の国際経済機構であったコメコンに加入した。そして、その体制に経済を組み入れることによってその安定と成長をはかった。1980年代末から90年代初めに起こったソ連・東欧社会主義体制の崩壊は、貿易、投資、援助をこれらの国に依存していたキューバ経済に深刻な打撃を与えた。さらにアメリカ合衆国がとった対キューバ経済封鎖の強化や、政府の対応策のまずさ、相次ぐ自然災害などがキューバ経済の悪化に拍車をかけた。89年から93年までの4年間に国内総生産は約40%減少し、輸入能力も92年には89年の48%にまで低下した。これらの結果、あらゆる日常生活品が不足して配給制となり、食料不足、都市の交通事情悪化や停電などで深刻な事態となった。
この時代ににわか作りのボートでキューバを脱出する難民が増加し、カストロ体制の崩壊がささやかれた。
それに対して政府は一連の改革に着手し、中国、ベトナムで実施されていた積極的な対外開放政策に踏み切るとともに、93年には国民の米ドル所有の自由化、一定数の個人営業の許可、生産性の向上と独立採算制の導入を目ざした従来の国営農場の協同組合農場化、94年の農産物や工業製品の自由市場化など市場機能の導入をはかった。一方、ヨーロッパ、カナダ、メキシコなどの国々から観光産業などに対して多額の投資がなされた。観光客は兌換ペソで全てがまかなえるようになっていて、1兌換ペソは25ペソ相当であるし、タクシーは全て国営であり、観光に力がいれられてきた。これらの結果、キューバ経済は立ち直り始め、マイナスが続いた経済成長も94年には初めてプラスへと転じ、95年には5%の経済成長を記録した。経済改革は効果をあげつつあるが、その一方でこの国に新しい貧富の差を生みだしたり、利己主義を育むなど新たな問題を生み出したりしている。指導者たちは今後競争原理の導入による経済の活性化と平等主義の維持という難しいバランスをとりながら、経済政策を進めていかねばならないだろう。
この間の中南米の政治的変化もキューバ経済に大きな影響をもたらした。ABCと言われるアルゼンチン、ブラジル、チリの南米3大国の民主化はキューバの孤立を救ったし、特に最近のベネゼーラにおけるチャベス大統領政府の政治的安定は同国からの石油の援助という現実的効果をもたらし、キューバのエネルギー危機を救った。
政治的に見れば経済不況からの脱出を最優先課題としたキューバは、国際社会での孤立を避けるために、敵視政策を続けるアメリカ合衆国以外のあらゆる国との関係改善に努めるとともに、従来のイデオロギー的な対外政策を改めて経済外交に重点を置いた政策をとってきた。国連やイベロ・アメリカ諸国会議、カリブ海諸国連合などを舞台に,アメリカ合衆国の経済封鎖に対する反対や、発展途上国の権利の擁護、環境保護などを強く唱えている。国連総会でのアメリカの対キューバ経済封鎖に対する非難決議に賛成する国は年々増えていて、1997年の国連総会でその数は143ヵ国に達し、日本も初めて賛成の側にまわった。こうした中で、対米関係の改善がどこまで進むかが、キューバ外交の注目点となっている。
そして、メーデーでのカストロの演説もキューバの経済状態の改善を基礎にして、今後どのようにして国民の生活状態を改善していくかが主題の一つであったようだった。電力事情の改善など日々に生活状態が向上することや、年金支給額の引き上げなどは国民の未来に希望を与えている。ともかくキューバは最悪の事態を乗り切って、社会主義を目指す道を進んでいるのである。
カストロの演説が終了した30分後に、宮本さん夫婦と私達は、テルミナル・デ・オムニブス(バスターミナル)に集まることにした。出来ればアルベルト氏の教えている学生達の話が聞きたいというのがKさんの希望であったが、宮本さんの説明では電話などの通信手段を学生が持っていないために緊急に招集をかけることは出来なかったということで、ここではレストランで昼食をとりながらキューバの事情について宮本さんとアルベルトさんの二人から説明を聞くことで満足した。
1日の夜は5時から旧市街のテアトロ・アメリカでフラメンコの公演を見ることにした。入場料は外国人通貨で5ペソ(キューバ人は現地通貨で8ペソ)だった。
楽器の構成はギター2丁、打楽器1丁で赤白黒のスカーフを付けた3人が登場しスペイン本国に劣らない熱演で最後はソロの踊り子だった。
劇場を出たらスコールで1時間近くのレストランで雨宿りをして、小降りになったところでタクシーをつかまえてホテルに帰った。
革命の聖地サンチアゴ・デ・クーバへ
5月2日は革命の最初の旗揚げの地モンカダ兵営があるサンチアゴ・デ・クーバへ飛行機で行くことにした。タクシーで8時10分に空港に到着し、エージェントの人間を捜してやっと連絡が着きホテルのバウチャーと往復のチケットを受け取った。
アエロ・カリビアン884便は50人乗りでターボジェットではない昔ながらの双発プロペラ機であった。経済封鎖をされているキューバでは車でも飛行機でも昔の物を大切に使っていて、現在キューバ全土を走る車はクラシックカーの宝庫で、骨董的価値からキューバの一大財産になっている。
飛行機は10時24分に離陸し、12時13分に無事サンチアゴ・デ・クーバの空港に到着した。
サンチアゴ・デ・クーバは北にカストロとチェ・ゲバラがゲリラ戦の根拠地としたシエラ・マエストラがあり、南にはカリブ海をのぞむキューバの古都で、カストロが最初の蜂起をしたモンカダ兵営があり革命の聖地と言われている。
ここでキューバの主役カストロについて少し述べておく。
カストロはキューバ東部オリエンテ州のビランにある砂糖農園主の子として生まれ、1945年にハバナ大学法学部に入学し、在学中に学生運動の指導者として内外の政治闘争に参加し,卒業後は弁護士となって政治犯や貧乏人のために才腕をふるった。1953年7月26日、同志とともに当時のバティスタ独裁政権を武力で打倒するため、サンチアゴ・デ・クーバの郊外にあるモンカダ兵営を襲撃したが失敗し捕らえられ、その裁判で「歴史は私に無罪の宣告をするであろう。」と自ら弁論を行いやがて釈放をかちとった。その後メキシコに渡り、チェ・ゲバラとともにグランマ号でキューバに帰還し、7月26日運動を結成し,武力革命闘争を指導して、59年1月1日ついにバティスタ独裁政権を打倒した。
キューバの政治体制は国家評議会議長,党第一書記,首相,軍の最高司令官を兼任し,国民の間で依然として大きな人気をもつカストロに絶大な権力と権威が集中している。しかし,近年は党の政治局や国家評議会の構成員による集団指導体制が強まっていて、特に30年代から50年代の若手が新しい指導部を形成しつつある。カストロの後継者は彼の弟で,ナンバー・ツーの地位にある国家評議会第一副議長、第一副首相、党第二書記の革命軍事相のラウル・カストロとみなされている。キューバの軍部は陸海空約18万の兵力をもち,ラテン・アメリカでは最強の軍隊の部類に属している。軍部はまた,党の中央委員会や政治局や閣僚会議で将軍たちがその構成員となっていて,国内体制の強力な支柱となっている。
この日はサンチアゴ・デ・クーバのホテル・サン・ファンに宿をとり、夕食は中華の店で広東風焼きめしと書いてあったが、実際はキューバ料理店で二階は中華風の飾り付けがしてあった。
翌日は朝食をホテルで食べて9時に車でグラン・ピエドラ(巨岩)に向かった。麓に着くと岩の頂上までは459段の石段を登らなければならないというので、ここは敬遠して、革命の根拠地グランヒータ・シボネイに行った。ここは養鶏場でカストロ達はここに襲撃用の武器を隠して、ここに参集して出陣を行った場所でカストロ達の当時の写真が飾られていて記念館となっていた。
次に訪れたのがモンカダ兵営であった。ここはバティスタ軍のキューバで2番目に重要な兵営であり、1953年7月26日、カストロ達はカーニバルの後のパーティで兵士達の気がゆるんでいることを想定して襲撃を行ったが、失敗して多くの仲間が犠牲になりカストロもとらえられた。
ここにはカストロと弟のラウロの部隊が取った襲撃の経路やメンバーの写真が掲示されていた。その後カストロ達は恩赦で出獄し、メキシコに渡り再起を図った。
兵営の次は1638年に海賊の攻撃を防ぐために、イタリア人の設計に基づき旧市街から南西10キロの位置に建設されたモロ要塞に向かった。
ここはカリブ海に面する大きな要塞で眺めが素晴らしかった。
その後キューバ建国の父ホセ・マルティの墓のあるサンタ・イフゲニア墓地にお参りをした。
それからこの地方で採掘した金を鋳造した設備が残っているキューバ歴史博物館に行き、その後夕食をスン・スンというアラブ人の邸宅を改装した店で食べた。ここはシーフードでワインをとって食事をしていると、さえないおじさんがギターを抱えて入ってきて弾き語りを始めたが、キューバの歌はなかなかのものだった。
5月4日は10時にタクシーが迎えに来て空港に着き、11時15分にチェックインを完了して中に入ったが、飲みかけのラムを瓶に入れておいたのがとがめられ、ペットボトルを渡され、詰め替えさせられた。
アエロ・カリビアン883便は来る時と同じプロペラ機で、13時12分に離陸、14時52分にハバナ空港に到着した。
ホテルは最初と同じヘミングウエイ縁のアンデス・ムンボスであった。
ここでキューバについては忘れられない作家、ヘミングウエイについて少し触れておく。彼はアメリカの小説家でイリノイ州オーク・パーク生れた。ハイ・スクール卒業後,短い記者修業を経て第1次大戦末期の1918年志願して傷病兵の輸送に当たりイタリアで負傷したが、帰国後創作を志し1926年の「日はまた昇る」は、リにたむろするアメリカ、イギリスの国籍離脱者たちの無軌道な生活と、その底にひそむストイックな「おきて」への信奉ぶりを通じて大戦後の精神の荒廃を描き出す傑作として作者を一躍〈ロスト・ジェネレーション〉の代弁者の地位に押し上げた。鍛えぬかれた羅列的口語体を駆使して刻々と展開する「なまの現実」を再現し強烈な臨場感を与える彼のスタイルは、この作品と次の「武器よさらば 1929年」で完成の域に達し多くの模倣者を生んだ。
その後の彼は一種の時代の偶像としてアフリカでの猛獣狩り、スペイン内戦での救援活動、第2次大戦への参戦や再訪したアフリカでの飛行機事故、そのタフな活躍ぶりが逐一報道されるほどの名声を得た。その後短編集「勝者には何もやるな1933年」での成果、スペイン内乱を描く「誰(た)がために鐘は鳴る1940年」の成功、そして老いた漁師と大魚の神話的な死闘を語る「老人と海1952年」で再び腕のさえを示した彼は、1954年ノーベル賞を受賞したが、キューバの自宅で1961年に猟銃で自殺をとげた。
私達はホテルに到着したことを宮本さんの家に電話し、彼女は都合がつかずアルベルト氏だけが来てくれて、夕食に中華街の天壇という店に連れて行ってくれた。中華街には10軒近い料理店が並んでいてけばけばしい店構えで観光客を呼び込んでいたし、料理も一流だった。
厳しかった90年代
食事中にアルベルト氏は厳しかった90年代のから現在に至る事情について話してくれた。
彼の説明によると1991年からエネルギー不足のためバスが走らなくなり、中国から自転車を輸入して対応した。
ハバナでは1日8時間の停電となり地方では18時間にも及んだ。食糧事情は94年が一番酷く彼の体重は110ポンドだったのが40ポンドも減ったと語っていた。
キューバの気温は50年間で2度上昇し、乾期に雨は少し降ったが、キューバ東南部では干ばつが激しかった。キューバは沖縄の様な島国であるので東部は水が問題である。
食糧事情について言うと米はアジアから輸入していたが、不足分はマランガ(里芋のような物)で補った。食事は1日2食で朝はパンだった。
キューバ人の生活物資は配給制で月10ドル余りしか無く昨年は250現地ペソだった。最低生活は月225ペソで皆貧しいが平等の生活である。
最近米国からの食料輸入は5億ドルの輸入米の契約をカリフォルニアの農協と契約したし、オハイオ州に知事がキューバにきて話し合いをしている等々の話してくれた。
5月5日はキューバの最後の日である。10時半に空港に着き、11時40分にチェックインを終えて、中に入ったが免税店は閉まっていてここで使うつもりだった、兌換ペソが使えなかった。このペソは海外では交換できないのでそのまま持ち出すよりしょうがなかった。
Kさんは免税店のサービス精神が足りないことは、帰国したらキューバ大使館に言わなければと怒っていた。
LR623便のエアバスA320は12時19分に離陸し、サン・サルバドールを経由してサン・ホセに帰ったが、サン・サルバドールでハバナ・クラブのラムを買うことが出来た。
ロス空港での出国ミス
サン・ホセを5月7日17時35分に離陸し、23時30分ロス空港に到着した。ここで大問題が起こった。空港の係員によれば、行きのサン・ホセ経由でパナマに飛んだ時に、出国カードが空港に納められていないというのである。
これは出国時のTACAのカウンター係員が犯したミスであるが、米国再入国時に渡された入管の書類では、渡さなかったのは、乗客のミスであり、不法滞在をしていないという証明をする義務があると言うことが書類に書いてあり、もしその証明を行わないならば、次回の米国入国は認められないと言うのである。そして証明書類を整えて日本から米国の入管に郵送しなければならなかった。
空港をでてホテルのシャトルバスに乗り、ホリディ・インに着いてもレストランは閉まっていて、近くのハンバーガーショップでハンバーガーやポテトフライを買い込んで、空腹を満たした。
翌日は空港で行きと同じように日本食で朝食を食べて12時過ぎにKE602便ボーイング777に乗り、翌日17時19分に成田に着き、成田エクスプレスで新宿から我が家に帰った。しかし今回は米国を出国したという証明の後始末が大変であった。米国を出国したことを証明する、航空券の半片、パナマでのホテルの領収書、現地で支払ったグレジット・カードのレシート現物、二人のパスポートの全コピーを取りそろえて、書留で米国の入管に送ったが、次回の入国が認められるまでは不安は継続している。
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