安岡襄のブログ

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help リーダーに追加 RSS 海外旅行アルジェリア、モロッコ、スペイン編1(1984年)

<<   作成日時 : 2005/12/20 07:28   >>

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アルジェ市内の旅です。

写真はアルジェの街 

ぶらり海外旅行アラカルト(アルジェリア、モロッコ、スペイン1)

 サハラに行こうと思ったが

 暮に10目あまりの休暇をとって,海外へでかけようと84年の夏頃から考えはじめた。とにかく冬に旅をするというのであるから,寒いところはだめである。そこで思いきってアフリカの砂漠を歩いてみようと思った。アフリカの砂漠へは,モロッコからサハラへ入るのと,アルジェリアからサハラへ入るのと2ルートがあり,これを対象に計画をたてることとした。モロッコからのルートであるが,冬のアトラス山脈越えができるかどうかが,ガイドブックなどでは不明であったので,もう一つのアルジェリアからのルートを選ぶこととしたが,まず現地アルジェリアの状況が全くわからない。およそ目本からアルジェリアへ行くツアーのようなものも全くないらしい。入国手続きについてはアルジェリア大使館に電話をすると,ビザの申請は英語またはフランス語で記載し,顔写真を添付した申請書4通を提出すること,これは必ずカーボンでコピーをとってゼロックス等の複写は認めないということ,さらに英語またはフラ
ンス語のレター形式の旅行計画書を2通提出すること,ビザの手数料は3,000円であって,恵比寿に大使館があるので,月曜日に申請すれば木曜日
にピザを記人したパスポートを返してくれるということがわかった。
 大使館でついでにアルジェリアの現地の観光などの様子を聞くと,ここでは観光に関することは扱っていないので,アルジェリア協会というところが出版している,アルジェリア・ハンドブックの中に必要な情報があるだろうから,それを読んで参考にしてほしいということであった。
 そもそも,アルジェリアという国は1954年の11月からフランスに対する独立戦争を始めて,民族解放戦線一FLNによる7年半の武装闘争を通じで独立を戦いとった国であり,その戦いについては,映画「アルジェの戦い」で日本でも.良く知られていた。しかし,独立後の経過については,私もほとんど知らなかったが,独立当時軍隊を背景に権力を把握したべン・ベラは,1965年のクー・デターによりブーメディエン大佐にたおされ,このブーメディエン政権時代にフランス系企業を中心とする,外国系企業が国有化され,その後,1972年にはフランス系石油企業とパイプラインを国有化し完全独立を成し遂げたのであった。そして,石油企業とパイプラインの国有化の後,豊富な天然資源を背景にアルジェリアの工業化が進められ,この工業化路線は,現在ブーメディエンの後継者であるシャドリ大佐の政権に引き継がれている。さらに,アルジェリアの目指す路線が,1976年制定のアルジェリアの国民憲章でイスラム教の原則に基づく社会主義国であることが明らかにされている。このハンドブックには,このようなアルジェリアの歴史のほか,入国ガイド,観光ダイジェスト等が書かれていて,このハンドブックを読んだところ,首都アルジェからサハラ砂漠に出るのにはバスと飛行機の2ルートがあり,飛行機でアルジェから1時間ほど飛ぶと,サハラの真珠とよばれるガルダィアというところまでいけるということがわかった。
 そこで,まずヨーロッパからアルジェへ行き、そこからガルダィアへ飛行機で飛び,そのあとはもう一度飛行機かバスでアルジェへ戻り,その後陸路をモロッコへぬけ,モロッコからはジブラルタル海峡を渡りスペインに行くという計画を立て,アルジェリアとモロッコはサハラ問題で仲が悪いので,もしモロッコへの陸路が国境閉鎖で不可能な場合は,アルジェから陸路を鉄道で東に向かい,チュニスからシシリー島に渡りイタリア半島に入る計画をたてた。

トラブル続出の安売り航空券

 そこで,ヨーロッパまでの飛行機については例によって安売りの航空券を探すこととなるのだが,10社ぐらい電話をかけたところC社で安売りの航空券でスペインまで入れるのがあることがわかった。しかし,このC社とは,数年前にヨーロッパ往復の航空券を買った時に,帰りの席の予約のできていない航空券を売りつけられ,マドリードで帰りの飛行機の予約がとれず,他の会社の航空券を現地で買って帰り,その払戻しについて,2箇月問も人:喧嘩をして,やっとお金をとりもどしたという悪因縁がある。「今度は絶対にご迷惑はかけません」という担当者の、言葉を,人の良い私は信じることとして英国航空の東京一ロンドンーバルセロナ,そして帰りのパリーロンドンー東京という航空券を予約した。
 この予約は9月にしたのだが,10月に入って担当者からは電話で行き帰りともとれていますという確認があり,すっかり安心をしていた。そして,12月に入りアルジェリア大使館にビザをとるための必要書類についてもう一度確認の電話を入れると,申請書やレターのほかに往復の航空券が必要であるということであった。どうして急にそんなことを,言うのかと,係の日本人女性に聞いたところ,最近サハラの砂漠に人って行方不明になる日本人が多いので,帰りの航空券を確認しなければビザを出さない方針になったのだという説明であった。そこで,C社に電話して航空券を早くもらいたいと言うと,前回の担当者は旅行中で他の人が調べたところ,行きのOKはとれているが,帰りはまだ押さえられていないという返事である。そして,
「2,3日中にはなんとかします」といっているうちにその2,3日もすぎ,こちらの督促に対しては,
「今では1月初めの英国航空の帰りの便はすべて満席です」
という返事であった。こうなってはしかたがないと,電話で担当者を怒鳴りつけながら空席を探させたところ,正月1日から3日までのヨーロッパからの帰国便は各社ともすべて満席で,12月31日のアエロフロート(ソ連航空)のパリーモスクワー東京なら空席があるとのことであった。そこで予定を変更して,12月21日の東京一モスクワーパリと12月31日のパリからの帰りのルートの航空券を買うこととした。さらに悪いことにはバルセロナーアルジェは1万数千円で行けるのが,パリーアルジェとなるとその倍以上の値段となり,その上大使館ではアルジェまでの航空券ももってこいというので,日本でパリーアルジェのノーマルの航空券を買わねばならず,その券が運賃計算の関係から,パリで買う券の2割高で4万円を超えるのであった。その後この種のトラブルの予約に関しては安売りの航空券でも良心的な店では,コンピューターの予約がとれれば,航空会社に頼んで座席確保の確認書を送ってくれることが判ったので,この文章をお読みになっている皆さんは,安売りの航空券で旅行をされる時には安全のため必ず確認書をもらうことをお勧めする。そして,やっと航空券をそろえ英文レターと申請君を書き,恵比寿にあるアルジェリア大使館でビザを貰ったのは出発3日前であった。ところがそれだけ苦労をして手に入れたビザの滞在期間はわずか7日間しか記入されていなかた。そして,出発までのトラブルがアフリカに人ってから次々と起こるトラブルの前兆とは、その時には全く気がつかなかった。

 モスクワそしてパリ

 トラベラーズ・チェックを買うとか,円をフランス・フランに替えるとかの雑務を済ませ,いよいよ12月21日,13時発のアエロフロートに乗りこんでパリに向かった。サービスが悪いので有名なアエロフロートだが,ヨーロッパまでの北回りに7社がひしめいているので,年ごとにサービスが良くなってくるのがわかる。数年前から日本語のアナウンスが聞かれるようになったし,今回はスリッパの無料サービスと日本語のメニューのサービスが加わった。成田から積み込んだ食事が牛肉のステーキでけっして悪くない。太陽の進行と同方向に飛ぶので,無限に暮れないようにみえる夕焼け空を見続けながら9時間あまり飛びモスクワのシェレメチェボ国際空港についた。その夜は宿泊費アエロフロート持ちでモスクワ泊りである。モスクワ泊りのトランジット客はほとんどが日本人の個人旅行者で皆旅慣れていて,のんびりとパスポート・コントロールを待っていた。このパスポート・コントロールもスローモーのソ連とはいえ年々早くなっていくようである。しばらく待つと全員が終わり空港からトランジットのホテルヘバスで運ばれた。ホテルも空港のすぐ近くにあり,無料なのだが家族のほかは男女に分けて順番に二人ずつつめこむのであった。私は一人部屋になる確率を狙って最後に並んだが,運良く一人部屋をくれた。モスクワ時間で7時だが,日本時間では真夜中なのでとにかくねむたかったので夕飯の権利を放棄してひたすら眠ることとした。
 翌日は出発の2時間以上前に起こされて,パリ,ロンドン,ローマなど行く先ごとにバスにのせられてもう一度空港に送られ,8時40分のパリ行の便に乗りこんだ。朝食を機内で食べ,ひと休みすると3時間でもうパリである。
 パリのシャルル・ド・ゴール空港からアルジェ行の便の出発するオルリー空港まではパリの市外を結ぶリムジンでも1時間以上かかった。オルリーでその日のアルジェ行の便を確かめたところ空席があることがわかったので,空港の郵便局から国際電話でその晩のアルジェのホテルを予約することとした。
 ここではダイヤル直通であるのに,電話のかかりかたもスムーズではなく,やっとかかると出るホテル出るホテル全て満室であるという答えが返ってきた。しまいには,郵便局の局員が代わりにかけてくれたが,ガイドブックにのっている3つ星以下のクラスはひとつも空室がなかった。そこで,その夜はオルリーの傍の2つ星のホテルアルカードに215フランで一泊することとして,エール・フランスのカウンターで翌日の一番機の予約を頼むとこれが満席で,ビジネス・クラスなら空席があるというのでそれを予約することとした。
 ここでは,日本で高いエコノミーの切符を買わされたおかげで,ビジネス・クラスとの差額は僅か8,000円を払うだけで済んでしまった。
 ホテルに荷物を置いてモンパルナスまでのリムジンにのると30分あまりで懐かしいパリの灯火とサンシャイン・ビルに似たモンパルナス・タワーの高いビルが見えてきた。さすがに12月のパリはぞっとするように寒い。モンパルナスの裏町にある安い中華料理店に飛び込んで雲呑スープ,チャプスイ(野菜と豚肉のいた:めあわせ),焼飯を注文し最後にジャスミン・ティを飲んでやっと人心地がついた。食事のあとにはメトロでオペラ座の前まで出て,寒い中をふらふら歩いている大勢のパリジァン達にまじって、映画館の看板を見たり、ウインドウ・ショッピングをたりしながら大通りをサンドニの近くまでふらふら歩いた。サンドニに近づくにしたがって段々歩く人達の様子も庶民的になってくる。日本でいうならば浅草か錦糸町というところであろうか。ホット・ドッグやボム・プリ(マクドナルドにあるようなボテトフライ)の匂いも懐かしい。一時間近くも歩きまわって,パリの気分をなんとなく身につてオルリーのホテルに帰ることとした。

地中海をひとまたぎ

 朝のオルリー空港はクリスマスの休暇で出かける人達でこったがえししていた。ようやく7時35分発のアルジェ行きエール・フランスの行列を探しだしてその後に並んだ。列に並んでいる人は皆アルジェリア人である。フランスにはたくさんのアルジェリア人が出稼ぎにきていて,そのほとんどがフランス人の嫌がる都市の肉体労働や葡萄摘みなどの農業労働に従事している。この人達が皆クリスマス休暇でアルジェリアに帰るのであろう,皆ものすごい荷物をもっている。そしてその荷物が電気の部品とか水道の部品とか生活に必要な細々とした工業製品であった。アルジェリアの革命後の消費生活が厳しいことは,アルジェリア人の飛行機に持ち込む荷物からもうかがえそうである。
 30分ぐらい行列がのろのろと進みやっと私の番になって大変なことに気がついた。ほかの人は皆ボーディング・カードをもっているのに私だけが航空券のままである。私にとってオルリーから飛行機に乗るのは初めてであり,皆たくさんの荷物を持っているので、てっきりこれからカウンターで荷物を預けるとばかり思っていたのだが,みな機内にもちこむ荷物であった。そこで,エール・フランスの女性にその理由を話して,まだ,ボーディング・カードに換えていないと話すと「何クラス?」ときかれた。
「ビジネス・クラス」と答えると,
「ついて来い」とかけだした。カウンターで荷物を預けるとあとは,パスポート・コントロールも税関もフリーパス,一気にフィンガーのところまでつれていってくれた。機内に入るとファースト・クラスとビジネス・クラスは同じ室でただ前がファースト,後ろがビジネスとわかれているだけであった。乗客は半分もおらず,エコノミーが満席であるのにゆったりとしている。日本入のビジネスマンらしい人も一人のっていた。
 オルリーを飛びたった飛行機は南下を続け,暫く飛ぶと眼下にスペインとフランスの国境にそびえるピレネー山脈が雪をいただいているのが見えた。ピレネーからスペインの東端をかすめ地中海に入ったのだが,ここらあたりから雲が深くなり,期待していた地中海は,見ることができなかった。一方室内では,黒い制服に身をかためたスチュワードによる朝食のサービスがはじまった。エコノミーのようにセットになっているのではなく,一品一品皿から取り分けてくれるサービスである。コーヒーなどもおかわりをすすめる時は,
「もう'杯おかわりを召しあがりませんか。」と上品なフランス語ですすめてくれる。わずか8000円余分に払うだけでいい気分が味わえるとは安いものだと満足しながら朝食を終えた。
 飛行機は地中海の上を飛び続けたが,2時間でアルジェである。日本のどこかのローカル空港を思わせるような二階建てのアルジェ空港に飛行機は定刻どおり到着した。
 アルジェの気候は日本の秋の始めといった感じで冬仕度の私はオーバーをぬいでもまだ汗がとまらないぐらいであった。パスポート・コントロールを終え回転式のカウンターの前で預けた荷物の出てくるのを持っていたが,いつまでもカウンターが動きださない。外を見るとどうやらひとつひとつ飛行機から人力で降ろしているらしい。1時間以上待ってやっとカウンターが動きだした。出てくる荷物は日本の空港のように立派な鞄はほとんどなく,ダンボール箱とか布製の鞄や布で包んだ荷物で皆生活の臭いがしみこんだものばりであった。私の荷物はなかなか出てこないので,本当にオルリーで積み込んだのかなと心配を始めるとやっと私の鞄もカウンターから姿をみせた。
 到着ゲートを出て,まず両替をと銀行をさがした。この国では強制両替があると聞いていたのでいくら両替しなければならないのかと尋ねると,いくらでもと答えたので,取り敢えず2日分ほどと思って2万5千円ほどディナールに換えることとした。
 ここで強制両替のことにふれると,これは,通貨コントロールを行っている国がよく採用している制度で,一当たりいくらと金額をきめ,それだけは消費させるという方法をとって闇で両替した通貨の使用を間接的に制限する目的も持っている。アルジェリアの場合は,通貨コントロールが厳しく,もし外国で両替したディナールをもっているのが見つかると簡単に10日ぐらい留置場にほりこまれ,100万円ぐらい罰金をとられるか,銀行の両替証明を無くすともう一度強制両替させられるとかガイドブックに書かれているので念には念をいれたのである。
 空港で両替を済ませて,銀行員にリムジンはどこにあるのかと聞くとそんなものはない,タクシーを拾って行けという冷たい返事であった。
 しかし.空港の外では太陽だけが私を温かく迎えてくれた。

 アルジェ市内へ

 アルジェの空港から市内までは約20キロあるが,空港と市内を結ぶリムジンはなく,タクシーの値段は50デナール(2,500円)ということであった。
 そして,空港で客待ちをしているどのタクシーもメーターがなく,100ディナールと口をそろえて言い,50ディナールでは行きそうになかった。海外ではどうも日本入は甘く見られるので,しばらく空港の玄関にたって様子を見ることにしていると,一人の運転手が「市内まで相乗りをして50ディナールでいかないか」と声をかけてきた・ところが乗り込んで約1キロも走ると,相乗りの相手は用事を思い出したと言って下りてしまった。こちらが大きい鞄をもっているので引き返すことができないと見て,二人で組んでやったことらしく,
「一人で行くなら100ディナールだ」と運転手はひらきなおった。やむをえず100ディナール払うこととすると,こんどは
「アルジェにはたくさんの日本人がいてみな金持ちだ」と話しかけてきた。ここアルジェリアでは石油代金を注ぎ込んで急速な工業化が進んでおり,日本の企業がプラント輸出にたくさん参加しているのであるが,その人達は相当の高給をもらっているという話であった。運転手に
「私は旅行者で同じ日本人でもお金はもっていないし,泊るホテルも3つ星クラスのところだ」と,アングルテールと言うホテルの名前を告げると,
「そのクラスのホテルは皆コンプレ(満室)だよ」と答えた。まだ12時過ぎくらいなのに,コンプレということはないだろうと
「ともかくそのホテルへつけてくれ」というと
「行っても無駄だよ」といいつつもホテルアングルテールへ行ってくれた。
 アルジェの市街は地中海岸沿いで12月とはいえ海は青々としていた。その海に面した坂道にアングルテールはあったが,タクシーを待たせて中に入るとコンプレという札が出されていた。そこでもう一軒とスイスという近くのホテルをのぞくと,そこもコンプレであった。運転手は
「エコノミーなホテルは皆コンプレだよ」とのたまうので,ホテル・オラッシーというガイドブックに最高級と書いてあるホテルはと聞くと「そこなら絶対大丈夫」というのでオラッシーに行くこととし
た。
 オラッシーは赤坂東急ホテルのような堂々としたホテルで坂道を登った丘のうえにそびえていた。運転手に荷物を持たせてフロントに行き,部屋があるかと聞くと,
「海側か山側のどちらをお望みですか」と聞き返されたので,値段を尋ねると,
「海側が500ディナール,山側が400ディナールで朝食は別です」という答えが返ってきた。
 2万円のホテル代というのにまずびっくりして,山側で結構と言うと,ベルキャプテンが荷物をもってすぐ部屋に案内してくれた。さすが5つ
星のホテルだけあって部屋はツインのスウィート形式で机や化粧台などすばらしい調度で大きいテレビが備え付けてあった。しかし,一泊2万円のホテルに泊ってお大尽旅行するほどの資金もないのでアルジェリアで砂漠に行くのは断念し,市内観光をすませたら早々にこの国を逃げ出し,とりあえずモロッコまで行くこととした。そこでホテルにある,0・N・T(国営観光旅行社)でモロッコの国境までの交通と国境が通過できるかどうかを尋ねた。0・N・Tのオフィスには色あせたパンフレットが置いてあって係員が一人暇そうにしていて,こちらの質:問には,
「モロッコへの国境が通過できるかどうかは判らないし,国境の町トレムセンまでの便はホテルの中にあるアルジェリア航空のオフィスで聞いてくれ」という冷たい返事であった。この様子ではトレムセンまで飛び,その後国境までバスを乗り継いで行って,そこで追い返されてはたまらないと考えて,またまた計画を変更し,ともかく一度バルセロナまで帰り,そこからモロッコへ入ろうと,アルジェリア航空のオフィスで予約を取ることとした。
 アルジェリア航空オフィスでは,数名の先客がいて,暫く待つと私の順番がまわってきた。
「バルセロナに行きたいのだが明日の便はありますか」と聞くと,コンピューターも操作せずに無いという返事であった。
「マドリードは」
「ありません」
「マルセイユは」
「ありません」
「パリは」
「ありません」
「ジュネーブ」
「ありません」
「ヨーロッパのどこでもよいから,明日の便はありませんか」
とねばって見ると,
「今はクリスマス休暇だから,このところヨーロッパ行の便は全て満席です」というつれない返事であった。
それではチュニスからシシリー島へ抜けるルートを行くことにするかと,
「チュニスは」と聞くと,これまた
「ありません」である。
いよいよ,アルジェからチュニスまでアフリカの汽車の旅をする以外にアルジェリア脱出の手段は無いのか,それにしても無事チュニスまでいきつけるのかな,そして,チュニスからシシリーまでのフェリーは切符が確保できるかなと,さすがの私も段々心細くなってきた。そこで最後にモロッコに行く便もあった筈だと,
「カサブランカは」と聞いて見ると,
カサブランカでやっとコンピューターをたたいてくれて,
「カサブランカだけは2便あるが,早いのと遅いのとどちらにするか」という嬉しい答えであった。こちらは,もし先の便が欠航になっても次の便に振り替えられるので早い便が良いと判断して,
「とにかく早い便が欲しい」と頼むと,
「SV135便を予約したよ,明日の朝銀行でディナールを買って,航空券をとりにきなさい。値段は618デナール(30,900円)ですよ」
と値段を計算した証明書と予約のコピーを渡してくれた。

 坂の街アルジェの観光

 ホテル・オラッシーで航空券の予約にこぎつけるまで2時間以上もかかったであろうか,翌日の3時の出発であるから,この日の午後と次の午前の約一日しかアルジェ観光の時間はない。ともかく市内へとホテルを飛びだした。
 アルジェは坂の街である。坂道は海岸からくねくねと丘の頂へと向かっていく。街は丘の上から下がるにつれて高級住宅地になっていく。これは植民地時代のフランス人の住宅だったのであろう。
 坂を下って行くと官庁街で,ビルの上にアルジェリアの国旗がひらめいていて,門には銃を持った番兵が立っていた。写真を写して良いかと尋ねるとどこでもノンであった。
 観光名所でまず訪れたのは,マルチール広場であった。この広場は1945年,多数のアルジェリア人が,フランス軍によって虐殺された場所で,フランス植民地時代カスバの一画をとりくずしてつくられたもので,両側はヨーロッパ風のアーケードになっている。街を歩くアルジェリア人達は,男は洋服,女は年輩の人はアラブ風の服装で顔を三角のべ一ルでかくし,目だけ出している。しかし娘さん達は皆素顔で歩いていて,しかも話している言葉はフランス語であった。
 旧フランスの植民地はフランコホーンと呼ばれ,どこでもフランス語が通じるのだが,アルジェリアのように独立戦争を戦った国で未だにフランス語が日常語として話されていることに,フランス文化の偉大さを見る思いがした。
 この広場の東側にはペリッシュ・モスクというモスクがあった。このモスクは1660年トルコの摂政時代に建てられたもので,ビザンチン様式の教会に外形は良く似ている。また,このモスクの近くにグランド・モスクというアルジェ最古のモスクもあったが,偶像崇拝を禁止しているイスラム教なので,モスクの内部は壁と天井のアラベスクの文様だけで椅子もなく,がらんとしたアンペラ敷きの礼拝所があるだけのさっぱりしたものである。
 カメラを片手にこの広場からあてもなくアルジェの街をふらふらと歩くことにした。街を歩いている人にカメラをむけると,ベールをしている女の人はすばやく横をむくが,娘さんや男達は平気である。子供達はぜひ写してくれと人なつっこく寄ってくる。アラブの国とはいいながら,この国では物乞いも殆どなく,治安も良さそうだし,人々の生活も質素ながら安定しているように見えた。
 ウインドウ・ショッピングをしながら,街を歩いていると3階建てのデパートがあるので入って見た。
 生活必需品を見るとあまり質は良くないが一応はそろっていた。但し値段は日本より少し高いようであった。物価高は,この国の為替政策の為で,通常の社会主義国なら,観光者レートで外貨交換の時に,ボーナスを付けて,調整を図っているのだが,それが無いため旅行者にはとても厳しい国である。

酒場の無いカスバへ

 翌日の朝はホテルで朝食を食べて,その後カスバへ行くこととした。ところが,この朝食がパンとコーヒーだけの質素なものでありながら,400デナール(2,000円)であった。フランスで食べてもせいぜい300円ほどの内容であった。そして,その後ディナールを換えに銀行へ行き,昨日の証明書をみせると618ディナールとその他に1,000ディナール計1,618ディナール交換しろと言われた。
「1,000ディナールが強制両替の義務額でないのですか」と質問すると,
「国外へ出る交通費は外貨払いが必要で,それに相当する額だけを別に交換しろ」と言うことであった。
「空港で500ディナール交換したのだから,それを差し引いて,1,018ディナールで良いのではないか」と言うとそれはしぶしぶ認めてくれた。
 今度は,空港での両替証明書を見せろ,というので,大切にしまってあったのを見せると,それをとり挙げてしまってデナールだけしか渡してくれないので,
「証明書がなければ困るのでここの両替証明が欲しいし,空港のも返してくれ」とねばると,
「証明が必要なら,隣の部屋でコピーをとってもらえ」
というのでコピーをとってもらうと3枚の証明のコピーで20ディナール取られて,がっくりしてしまった。
 ホテルからカスバまでは地図で見ると1キロ足らずであった。途中でアルジェリア人の娘さんに
「カスバへはこの道で良いの」と尋ねると,
「ウイ」という答えである。そこで,
「カスバは危険ですか」と聞くと,この男なにを馬鹿な質問をするのだろうという顔で,
「ノン」と言って笑われてしまった。
 カスバは昔からアラブ系住民の居住区で,独立戦争では,戦いの拠点となったところである。山の斜面に白い壁の家々が張り付く様にたてられていて,案内人無しで中に入るとなかなか出てこられない,と言われているが,カスバを横切って小型乗用車の通れるぐらいの大通りがあり,それを通って中を見物することとした。
 よくカラオケで「カスバの女」と言う演歌が歌われているが,回教徒はコーランの教えでアルコールは飲まないし,またヨーロッパ系の外人部隊の兵士がアラブ人しか居ないカスバに通うこともないので,この歌にあるような酒場は昔も今もカスバには無いし,従って酒場の女もいる訳もない,カスバに有るのはあまり上品とは言えないカフェぐらいであった。
 沢山のアルジェリア人達がたむろして,コーヒーを飲みながら雑談しているだけであった。そして,女性が人前に出るのがタブーであるから,ここには女性の姿も見当たらなかった。一杯1ディナールのコーヒーを飲んで一休みして,またカスバの大通りを歩き出した。
 とにかく,このカスバには人が沢山歩いていて,通りの両側は商店だったり民家だったりしていて,雑然とした賑わいであった。食料品や雑貨品が中心で商品も昨日のデパートに比べると安いが,そのぶん奇麗ではない。あまりエキゾチズムもロマンチズムもないので「俺はカスバに足を踏み入れたのだ」という事実だけを記念に残してカ

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内 容 ニックネーム/日時
航空会社との切符の話し合いの記事ひじょうに参考になりました。又読ませて下さい。ブログhttp://motrip.seesaa.net/でも書きましたが良いたびになるようがんばります。
ydu
2007/02/14 21:20

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