ベオグラードとザグレブの旅です。
写真はステファン寺院の尖塔
ぶらり海外旅行ア・ラ・カルト東欧編6
ベオグラードへ
ソフィアからの列車はブルガリア側国境を過ぎて,名前はよくわからないが,ユーゴ・スラビァ側の駅でしばらく停車した。切符はフィスまでしか買っていないので,ユーゴ国内の切符を買わなければならないのだが,ユーゴのデナールは全く持っていないので,列車の止まっている問に両替をすることにした。列車を降りて駅員に銀行は何処にあるか聞いたところ,売店で両替をしてくれるというので,100ドルを両替してもらった。1デナールが1.4円と「地球の歩き方」に書いてあるが,交換してくれたのは1デナールが90銭であった。しかし,売店の親父のお金を勘定するのが鈍いので,こちらは列車が出発してしまうか
と気が気でなかった。両替してくれたのは100デナール札や10デナール札がほとんどで100ドルがものすごいボリュームになった。列車が発車して検札にきた車掌からベオグラードまでの切符を発行してもらってひと安心した。車内には食べ物も売りにこず空腹のままベオグラードに着いたのは午後の2時30分であった。
自由な社会主義ユーゴスラビア
ユーゴスラビアはモザイクの国家といわれている。7つの国と国境を接し,6つの共和国からな り,5つの民族が住み,3つの宗教を信じ,2つの文字を持つ1つの国というたとえは有名である。
この国は第2次大戦後のコミンフォルムのユーゴ批判以降,社会主義体制のなかでも,アルバニアとならんで独自の道を歩いている。それは,
ユーゴとアルバニアの両国が自力でナチスの手から国を開放したことで,自信をもっていてスターリンの権威に頭を下げなかったからである。アルバニアが鎖国主義であるのにたいし,ユーゴは開放主義と言っても良く,日本から行く時に,ビザのいらない唯一の社会主義国である。 通貨についても完全に変動性でドルや西欧の通貨と交換性が保証されているが,そのためインフレも激しく,60年1月の発行の「地球の歩き方」で1デナール1.4円と書かれていたレートが8月には90銭になってしまうという暴落ぶりである。
ユーゴのもうひとつの特徴は,ベルリンの壁に象徴されるように社会主義国では出国の制限が有る国が多いが,ユーゴではむしろ外貨獲得のため外国への出稼ぎを奨励していて,西ドイツに100万を越える人が出稼ぎに行っていると言われている。
ベオグラードはユーゴの首都であると同時にセルビア共和国の首都であり,ドナウ川とサバ川という2つの大河の合流点にある。ベオグラードとは白い砦という意味で東ローマ帝国時代ローマ人がここに白い石で城壁を築いていたことに由来する。
べオグラード中央駅で降りた私達はこの国では直接ホテルに宿泊の申し込みが出来るので中央駅から6ブロックほど行った所にある,ホテル・スラビアという3星クラスのホテルに宿をとることにした。
ホテルは大部屋で4580デナール約4000円である。ホテルで昼食と夕食の問のような食事をとることにして食堂に行くと,お客は他に誰も居なかったが快く食事させてくれた。ここでドナウ川の鱒料理を注文したところ,焼き上げた鱒を目の前で給仕人がナイフとフォークで手際よく骨を取ってくれるサービスしてくれた。
鱒は白ワインによくあい素晴らしい味でシャンデリアのある豪華な食堂でご馳走を食べるのはちょっとしたブルジョワ気分であった。お値段はフルコースで5390デナール5000円足らずで一家4人が満腹した。
一人旅の日本人に会って
食事後ホテルの前でぶらぶらしていると,ソフィアからの列車で見掛けた30過ぎの日本人の男の人が懐しそうに挨拶してきた。外国で何日も日本人と話をしていないと無性に日本語で話したくなるがその人は丁度そういう気持ちだったらしい。
「ホテルのロビーで話しませんか。」というと,彼は座ると同時に堰を切ったように話し始めた。
「私は一人でもう1月以上ヨーロッパを旅しているが,こんどユーゴにきたのはチェコスロバキアのプラハのカルル4世橋の上で会ったアメリカの女性が,ユーゴのアドリア海岸にあるドブロブニクはアドリア海の真珠と呼ばれていて素晴らしいのでぜひ行きなさいと言われたので訪ねていく途中です。しかし,鉄道はドブロブニクまで通じていないので,途中まで列車で行き,後はバスで行かなければなりません。一人で旅をしていて言葉が通じない上に,交通が不便で目的地に着けないといやになってしまって,行くことを諦めてしまうこともあります。ブルガリアで有名なリラの僧院も途中まで行って道が分らずとうとう行けませんでした。」
「言葉は何語をしゃべって旅をしているのですか。」と聞くと,
「英語だけです。どうしても通じない時は,大声で
「誰か英語の話せる人はいませんか。」とどなるのですよ。不思議なことに誰か話せる人が出てくるものですよ。」と言い,
「久し振りに日本語を話して元気がでました。また,汽車に乗って行くことにします。私の今の最大の希望を言えば,パリのパレ・ロワイヤル広場にある大阪ラーメンの店でラーメンを食べることです。」と語っていた。
彼は奥さんを日本においての一人旅だと聞いたので,私が想像するところでは,自分の仕事の転機を求めて一人でヨーロッパを彷徨っている人らしかった。
その後妻と二人で近くを見物したが,子供達は疲れたといって部屋に鍵をかけてひきこもってしまった。緑の多い革命通りに面した聖マルコ教会はロシア正教と同じ系統のセルビア正教の教会,で,20世紀に入って建てられたというが赤レンガ造りの美しい教会であった。国立博物館はレパブリック通りに在り1844年というから今から140年も前のセルビア共和国で一番古い博物館である。ここにはビザンチン時代のフレスコ画が多いが,その他一階にはユーゴの作家の絵があり,2階にはルノワール,ピカソ,ゴッホ等ヨーロッパの有名な画家の絵が陳列してあった。東欧の博物館や美術館を見て感じたことは,印象派以降の絵も結構沢山あるということである。それに比べ経済大国になって名画を買い漁っているといっても,日本の美術館ではまだまだ名画が少ない。まして,印象派以前のレンブラントやルーベンスの様な大作になると日本では殆ど鑑賞できない。
今回の東欧旅行ではこの二人の絵も含めて名画をいろんな所で見ることができたのが良い想い出になった。散歩の途中もう一度中央駅へ新聞を買おうと立ち寄ったところ,ヘラルド・トリビューンが売られていた。ホテルへ帰ってから広げて見ると,日航機の墜落事故の詳報が書かれていて,そこで東京から大阪行きの飛行機が落ちたことや,ダッチロールをやったことや生存者も居ることなどが書いてあったので,下手な日本語に訳しながら家族に読んできかせた。ところが,読み.終わると,妻が,
「明日のザグレブまでは汽車では時間がかかるので飛行機で行きましょう。」と言いだした。子供達は,
「飛行機は落ちてしまうからいやだ。」と言うのに妻は
「家族皆で落ちるのなら平気でしょ。」ととうとう飛行機で行くことにした。もっともユーゴ国内便は安く,ユーゴ航空のエイジェントですぐ予約ができて,一人4910デナール約4500円,息子は小学生で半額であった。
さらばドナウ
翌日は朝食の後ドナウ河とサバ河の合流点にあるカレメグダン公園に出かけた。この公園は2000年の歴史を持つ古い城郭を利用した公園で第2次大戦に使われた大砲や戦車が飾られている武器博物館やイスラム寺院があった。子供達は公園の中に在る動物園を見つけて大喜びであった。今まで美術館や教会や古城ばかり見てきたが,そんなものよりは日本なら地方都市にあるような小さな動物園でライオンとかキリンとか象とか猿とかありふれた動物だけのいる動物園のほうが子供にはずっと良いらしい。動物園でしばらく遊んで,古い城壁のはずれの小高い丘のレストランに行き,そこでひと休みということでビールやジュースで喉を潤した。ここはドナウの合流点が良く見える場所であった。ウインから我々はずっとドナウに沿って旅をしてきたが,いよいよドナウともお別れと思うとなごり惜しい感じであった。帰り道の公園の中でおばさん達が5,6人手作りのレース編みを芝生の上に並べて売っていた。テーブルクロスや壁掛けなどが皆5,6百円という安さである。これは荷物にならないと10枚以上買い込んだが,ここでもおばさん達は日本の飛行機が落ちたと身振りで教えてくれた。
公園の近くに東欧には珍しいカトリック教会が在るというのでついでに見物することにした。ネオ・クラシック様式で塔はバロック式のこぢんまりした教会であった。昼食はその教会の傍に「?」という面白い名前のレストランがあるとガイドブックに書いてあるので,そこで食べることにしていた。ところがその店を見付ける前に北京飯店という看板があるのが見付かった。ホテルのフロントの話ではベオグラードには中華の店は無いとのことだったが,中華を見付けた途端,衆議一決昼食は中華に変更することにしだ。我々は相変らず焼きそばや炒飯で舌つづみを打った。やはり世界中米の飯とお天照様はついて回るわいと気分を良くした。
なつかしのザグレブ
その夜のザグレブ行きは20時16分のJAT706便であった。ベオグラードの空港はこぢんまりした空港だが,さすが首都なのでヨーロッパ中へ行く便がひっきりなしに飛びたっていた。我々のザグレブ行は定刻に離陸してわずか30分で無事にザグレブ空港に到着した。
ザグレブへの到着が9時近くになるので,予めホテル・スラビアからテレックスでインターナショナルというホテルを予約しておいた。このザグレブという町はクロアチア共和国の首都でユーゴ第2の都会,人口は70万人である。実はこのザグレブには8年程前に夏休みで友人と二人でコペンハーゲンからマドリードまでのヨーロッパ縦断の旅行をした際に,ビザなしで行ける社会主義国というので一度覗いてみようとミュンヘンから南下して1泊2日の日程で訪問をしたことがあり,その時,中世的で印象にのこる素晴らしい町であったので,もう一度訪ねたいと思っていた所であった。ザグレブは昔オーストリア・ハンガリー帝国の領土でハプスブルグ家の支配下にあったので,バルカン半島の中でも極めて西欧的な町である。ベオグラードでは看板がキリル文字であったのが,ここまで来ると全てローマ字表記に変わってなんとなく親しみやすくなってきた。住民達の服装もスマートで生活水準はイタリアより豊かな感じさえした。前回は駅前のエスプラナーデ・インターコンチネンタルというホテルに泊って、主として市内だけを見物したのでの郊外の様子は良く判らなかったが,こんどのホテルはザグレブ駅裏で、かつては郊外だった所に最近できたホテルらしく,1420室もある大ホテルであった。周りには大きなビルが沢山建てられていて,ザグレブの郊外はどんどん発展している様子がうかがわれた。
素晴らしいステファン寺院のゴシックの尖塔
翌日ザグレブの市内見物にでかけたが,駅前から青い色の市電がでていて,市内の交通は電車だけというのは8年前と同じであった。共和国広場という所が町の中心に在り,その上の小さい広場が青空市で西瓜やぶどうやいろいろな野菜を山盛りにしておばさん達が売っていた。ここには人形や民族衣装を売るお土産物屋もでていて,ここで小さい民族人形をお土産に買い込んだ。青空市の広場の横の坂道を上がると高さ108メートルのゴシック様式の2つの尖塔をもつ聖ステファン寺院がある。この町の住民の殆どがカトリックでこのカテドラルはバルカン半島最大のカトリックの寺院である。残念なことに門が閉っていて中に入ることはできなかったが,ザグレブにきてこの尖塔を見ればザグレブ再訪の目的は達せられたと満足した。私は麦畑のなかに聲えるフランスのシャルトルの尖塔も美しいが,ここの尖塔の方がもっと美しいという印象をもった。教会から坂を昇ると上の町は中世の雰囲気が今も残る町造りが続き豪邸が残っている。昔の城門が残る石の門と呼ばれる門も観光名所である。この門が作られた13世紀には,町はこの門に続くような城壁で囲まれていたそうである。歩き疲れた私達は昼食を食べに共和国広場に降りて近くのスプリットというレストランに向かった。スプリットとはアドリア海の港町の名前であるので,当然このレストランも魚料理である。レストランに入ると戸外のテーブルに案内された。英語のメニューを貰って料理を注文しようとしていると息子がなにかウエイターに話かけて彼は,
「ソロ・イタリアーノ」と答えた。驚いた私は息子に,
「何を話したのか。」と聞くと、息子は
「お父さんがいつもスピーク・イングリッシュ パルレ・ブ・フランセと聞くから、僕も聞いてみたの。」と答えた。
ユーゴ風の魚料理を注文すると、海老やら貝やら名前が判らない魚が食べ切れない程でてきてこれを鉄板にオリーブ油を引いて燐き上げる料理だった。例によよって白ワインを注文したがよく冷えていて少し甘く料理にあった良い味であった。
この様なご馳走では相当良い値段だろうと覚悟したが,日本円で7000円ほどで一流料理店としては考えられない安さであった。東欧では料理が美味しくて安いので,今回の旅行では私達家族は今までで最大の贅沢ができたのであった。しかし,それも今日でお終いであると考えると残念であった。食事後ザグレブ駅の地下にあるスーパーマーケットに行きチーズやハム,ソーセージワインやビール,ビスケットなどしこたま買い込んだ。後で食べたがここで買ったクリームチーズはとろけるように甘く美味しかった。午後の散歩は駅前を中心に下町をぶらつくことにした。チトー将軍広場や植物園など緑の多い町を歩いていくと地図にない大きな建物があった。近くを歩いている人に,
「フランス語が話せますか。」と聞いてから建物について聞くと,
「フランス語はわかるけど,私達はチェコ人ですから。」と答えた。 東欧の人達も長期の休暇をとってバカンスで外国旅行をするらしい。それから気をつけて見ると,駅の近くの広場や空き地は東欧の各国の自家用車やキャンピングカーで一杯であった。
その夜の夜行列車は寝台を予約できたけれども11時45分の出発だったので,ホテルで一部屋だけを確保して夜中まで子供達は一眠りさせることとした。ホテル代はツイン2室で16800デナール約1万5千円,後の半泊は8400デナールであった。
11時過ぎにホテルからタクシーで駅に行き,到着していたウイン行の寝台車に乗りこんだ。ザグレブ・ウィで2等寝台にしたが幸い私達家族だけでコンパートメントを占領できた。私だけがオーストリアの国境まで起きていて,パスポートコントロールや税関のチェックを済ませたが、私もその後はぐっすりと眠り込んでしまった。
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