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写真はペリトモレーノ国立公園 一晩だけのブエノス・アイレス サンチアゴから2時間で飛行機は、アンデス山脈を飛び越えてブエノス・アイレスのエイサ空港に到着した。アルゼンチンは前回の海部さん達の旅行に同行してから2年ぶり、私にとっては4回目の訪問である。空港には日本でシルビアから名前を教えて貰ったクララが迎えに来てくれた。彼女は日本語は話せないが、英語でパタゴニアとブエノス・アイレスのホテルの手配をしたくれて大変お世話になった。 この夜はイグアスから帰ってきた女性2人を含めて、街の中心マイプ通りにあるロチェスターと言うホテルに宿泊するはずだったが、パタゴニアへ行かないIさんご夫妻は、このホテルをキャンセルして自分で予約したホテルに泊まることになった。 今回の旅ではこの夜が全員そろう最後のチャンスだったので、イグアス組も合流して最初「ガレリア・パシフィコ」と言うビルの地下にある、日本食の食堂を目指した。しかし、先行のHさんAさんとはぐれてしまって雨もひどくなったので、ラバージェ通りの「パリージャ・テネドール」と言う中華レストランに入って食事をし再会を祝した。 明日からはブエノス・アイレス残留組7人を残して5人がパタゴニア一周旅行である。 私は今まで世界各地を旅行してきたが、パタゴニアは今まで旅行してきた世界各地といろいろな意味で関連があるのに驚いた。 パタゴニアの地理と歴史 パタゴニアの名前は1520年にマゼランがスペイン王と契約を結び5隻の艦隊を率いて西行き航路を取り、マゼラン海峡通過の際、この付近に住んでいた先住民をみて、大きな足の種族という意味のパタゴン族と命名した事から始まる。 まずそのマゼラン海峡であるが、南アメリカ大陸とティエラ・デル・フエゴ島との間にあり、太平洋と大西洋とを結ぶ水路で全長は約600キロである。大西洋側の入口の部分がアルゼンチン領であるほかはすべてチリ領である。海峡の主要都市としてはフエゴ島との対岸の大陸側にプンタ・アレナス港、フエゴ側にポルベニル港がある。大西洋側入り口からほぼ中間地点のフロワード岬までは海峡は幅も広く両側も平たんであるが,この地点から太平洋にぬける部分は狭い氷河が山あいを削って作られたフィヨルド状の水路となり、島も多く両岸には雪山が連なっている。チリ政府はこの海峡の領有を確定するため、最南の地にプンタ・アレナスの町を建設した。この海峡はパナマ運河の建設までは、太平洋と大西洋を結ぶ重要な航路としての役割を果たした。 2005年にパナマ、コスタリカ、キューバを友人と2人で旅行したが、米国が運河地帯を自国の管理下に置き、1905年に運河の建設事業を開始し、閘門と湖を利用して船舶が通過できるようになったのが1913年9月で、14年8月に通航業務を開始された。 こうして完成した閘門式のパナマ運河により、太平洋と大西洋が64キロの水路で結ばれることになった。ニューヨークとサンフランシスコ間の距離は約1万5千キロ短縮され、米国のみならず世界貿易に与えた影響は計り知れないものがある。 運河の現地を訪れたとき船舶の積み荷の中に中国のコンテナーの多いことに驚いたが、運河開削以前には、この海峡を通って世界貿易が行われたのかと感慨にふけった。 海峡を発見したマゼランはポルトガルのオポルト付近に生まれ、16世紀の初めポルトガルの艦隊に加わり、バスコ・ダ・ガマの開いたアフリカ大陸最南端の喜望峰回りで、インドやマラッカを訪れている。彼はポルトガルの王室とは不仲になってスペインに移り,かねてから彼の持論であった、西回りでトルデシーリャス条約で定められたスペインの海域のみを通過して、香料諸島に到達する航海を提案した。トルデシーリャス条約はローマ法王によって決められた地球を分割してスペイン、ポルトガルの領土を決めたものである。そしてスペイン国王と契約を結び,1519年9月5隻の船隊を率いてスペイン南部アンダルシアのサンルカル・デ・バラメダ港を出帆した。一行はマゼラン海峡を1520年11月28日通過し南太平洋の横断という偉業を成し遂げたが、21年3月17日フィリピンのサマール島の南にあるオモンオン島に上陸した。一行はさらにセブに向かい,住民を服従させようとしたが失敗し,4月27日マゼランはフィリッピンのマクタン島で交戦中に土着民によって殺された。一行はそのまま香料諸島から喜望峰回りでスペインに直行した。 この世界周航によって地球は球形であることや,地球を一周すると日付に1日の差の生ずることが実証された。 これも私の旅の話であるが、シベリア鉄道を旅行してウラジオストックから、イルクーツク、モスクワ、サンクト・ペテルブルグそしてエストニアのタリンまで行く間、毎日1時間あるいは2時間と時差を調整して地球の大きさを実感したのを思い出した。 話はパタゴニアに戻るが、今回の旅行で日程を2月から3月にしたのは、パタゴニアが南半球の先端南極大陸の近くにあり日本の冬が現地の夏になるからであった。しかし、ここの気候は年間を通して低温、風が強いとガイドブックに書いてあり、前に北極に近いアイスランドに行った経験からも、今回は重装備をしていったが、現地は風もなく日本の秋のような気候で快適な旅ができたのがうれしかった。 パタゴニアだけで日本の3倍の面積もあり、北から南までの長さは稚内から鹿児島までの長さとほぼ同じである。 パタゴニアの地形はアンデス山脈を境にアルゼンチン側とチリ側で大きく異なる。チリ側は、ノールウエイト同じように氷河期時代に形成された氷河が造成した大規模なフィヨルドが広がっている。 アルゼンチン側の北部、コロラド川とネグロ川に挟まれた地域は草原が広がる。農耕も行われている。アルゼンチン側南部は、乾燥が激しく砂漠が広がっている。 南西からの強い偏西風がアンデス山脈にぶつかり、チリ側は比較的雨が多い。年間の降水量は5000ミリを超えるといわれている。このため北海道並みの気温であるにもかかわらず、大規模な氷河が多数形成されているのは、この大量の雨の供給があるからである。 南米大陸の果てウシュアイア 2月23日は早朝というよりは夜中にホテルを出て3時間40分飛んでで7時20分にウシュアイア空港に到着した。 ウシュアイアはアルゼンチン南端のフエゴ島にある都市で、ティエラ・デル・フエゴ州の首都である。 ヨーロッパ人の入植者がやってくる以前は、この一帯には先住民族であるフエゴ人が住んでいた。ウシュアイアという名はイギリス人の入植者がつけたものであった。 2005年現在の人口は約64,000人でウシュアイアは南緯54度48分に位置し、その先は南極であるので世界最南端の都市であるということである。市はビーグル水道に面し、後背地の山が海に迫る地形であるため、市街地はビーグル水道に沿って発展してきた。 ビーグル水道は南アメリカのフエゴ島と、その南側に位置するナバリノ島、オステ島を隔てる海峡で、チャールズ・ダーウィンが1831年から1836年にかけて行った、ビーグル号による地球一周航海の際の経路であり、同水道の名前は同船に由来する。 ダウインはイギリスの博物学者で,ケンブリッジ大学卒業後,海軍の測量船ビーグル号に無給の博物学者として乗船南半球各地の地質,動植物を観察し自然淘汰による進化論の基礎研究「ビーグル号航海記」を著した。ここでオーストラリアのダーウインとの関係であるが、ビーグル号は1839年にこの地に訪れて、良好な停泊地をダーウイン湾と名づけたが、この時には本人のダーウインはビーグル号には乗船していなかった。 ウシュアイアは20世紀前半では、市は凶悪犯を収容する刑務所の周りに発展していた。囚人の脱走を困難なものにするため、かつてイギリスがオーストラリアを流刑地にしたのにならい、アルゼンチン政府は首都ブエノスアイレスから遠く離れた、このフエゴ島という孤島に流刑地を造ったのであった。流刑囚はここに住み着くほかはなく、刑務所の周りの山から木を切り、平地に運んで町をつくるのにほとんどの時間を費やした。また、森林から町へと木材を運ぶための鉄道も建設した。現在では、この鉄道は観光用の鉄道で世界最南端のを走り「世界の果ての鉄道」と呼ばれている。 しかし、近年では、ウシュアイアはフエゴ島国立公園やホーン岬などの観光の基地として発展を遂げてきている。交通も整備され、ブエノスアイレスとは航空機の便やアルゼンチンハイウェイで結ばれ、世界最南端の岬、ホーン岬へはここから船をチャーターして行くことができる。ビーグル水道が国境となっているため、この船はチリの領海を通るが、ホーン岬自体がチリの領土である。 ウシュアイア港からは南極大陸へのクルーズ観光船が出航する。また、ウシュアイアはブエノスアイレスから南へ延びるアルゼンチンハイウェイ3号線の終点であると同時に、パンアメリカンハイウェイの終点でもある。 我々は出迎えの車で民宿風のホステル・ミラビーグルに行き荷物を置いて港に向かった。しかし波が高いと言うことでビーグル運河にすむ海鳥やペンギン、この地域特有のシーウルフ(Seawolf)という魚を観察するクルーズ船に乗ることはできなかった。先に払い込んであったクルーズの代金は相当の額だったので、帰ってきたお金でレストランに入り大きい蟹も入ったシーフードを満喫した。 ウシュアイアの余り大きくない町をぶらついて、ホステルに帰りSさんご夫妻と男性3人で二部屋に別れて泊まることになり、夕食は宿舎でアルゼンチンワインを楽しんだ。 翌日午前中は「地の果て号」に乗りアルゼンチン側のパタゴニアの景色をごとごと走る列車から見て一時をすごした。 午後はウシュアイア空港からチリ側のプンタアナレス空港に飛び、そこからバスターミナルに行きバスでプエルトアナレスまで長い旅をしてようやく9時半にバスターミナルに着いた。ところが出迎えの車が来なかったので宿ウェスカーロッジに電話して迎えに来てもらい、到着したのは11時半だった。 食堂は閉まっていたがシーフード料理を作ってもらいチリワインにありついた。 ここでアルゼンチンとチリのコンピューター事情について書いておきたい。ブエノス・アイレスもサンチアゴもコンピューター事情が良いわけではないが、パタゴニアに入るとソフトも古く送信事情も急に悪くなった。外国旅行の時はコンピューターを持参しないでネットカフェやホテルの機械を利用しヤフーメールで送るのだが、キータッチがうまくいかず字が流れたり、メールが届かないことがしばしばあった。前に自分のコンピューターを持参したときに、国によっては多分電圧の関係からか画面が乱れる国が多かったので、置いてあるコンピューター使うのだが、この問題の解決は頭が痛い問題であり、特にパタゴニアでは苦労の連続であった。 氷河、湖、山々の風景に富んだパイネ公園 我々の泊まったウエスカーロッジのあるプエルト・ナタレスは、パイネ国立公園観光の基点となっている町で、この町は、ウルティモ・エスペランサ湾に面し三方を雪山で囲まれた小さな風光明媚な場所である。 2月25日はパイネ国立公園の一日周遊であった。一行は旅行社の仕立てたワゴンに乗り込んだ。 パイネ国立公園は チリ南部パタゴニアの最大の観光地で、南緯50度の南に位置し面積は日本最小の件香川県より少し小さい1630平方キロである。 公園の入り口で別途入場料を払わされたが、当然手配をしたフロリダ旅行社の費用に含まれていると思っていたのだが、バウチャーが無く入園料だけは別勘定だった。 パイネ国立公園は無数の湖と氷河から成り立っていて、巡る道路は一部舗装、一部砂利道だが車は快適に走った。 パタゴニアを特徴付けるのは氷河である。数は50以上あるといわれている。その規模は、南極、グリーンランドに次ぐ量といわれている。 ここの氷河は、温暖氷河に属する。アンデス山脈に降る多量の雨により水源が供給される。また非常に速く氷河が移動することで知られている。夏と冬で移動速度は当然異なるが、平均年間に100メートルから200メートル移動するといわれている。 撮影ポイントで車を停めて貰って写真を撮るのだが、進めば進ほど景色が素晴らしくなっていくのには皆驚いた。ともかく山と湖の調和が素晴らしかった。 入り口から約20キロ走った途中で「サルト・グランデ」という勢いの良い滝の傍で車を停めて写真を撮った。かつて行った北極に近いアイスランドの滝○ほどの壮大さはないが素晴らしい眺めであった。 この公園の代表的な景色は三つの岩峰からなる、「トーレス・デル・パイネ」でトーレスは英語のタワーに当たる塔を意味するスペイン語でぎざぎざとした奇怪な形が素晴らしかった。もう一つは公園の最高峰「パイネ・グランデ」でこれは大パイネという意味である。 湖としてはグレイ氷河が流れ込む「グレイ湖」が一番壮大である。 約3時間の観光を終えて一度○にもどってから、車でプエルト・ナタレスの町に夕食を食べに出かけた。 この町は太平洋に面していて、1平方キロの中に収まるような小さな町である。 シーフードのレストランを見つけて中に入ったが、出てくる料理はどれも美味しく、我々5人は皆飲んべいなので、白ワインを傾けながら話に花が咲いた。特にパイネの景色については私はアイスランドを旅行したが、他の人達は地球の果ての地は初めてだったので、ここまで来たかいがあったと喜んでいた。私もアイスランドの経験から想像していたより、広大で山と湖の調和と変化が楽しめる景色に感動して、さらに美味しいワインと料理が楽しめるグルメの地の素晴らしさを褒め称えた。 |
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『いつかモイカ河の橋の上で』 中野吉宏 著 (第三書館)
副題は「会社を休んで59日間 地球一周」とある。 ...続きを見る |
エルミタージュ図書館 2008/09/11 23:37 |
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